上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

個性と空気

「強烈な個性」と「空気読める力」は両立するのだろうか。

最近「空気読む」が俺ん中でずっと中心的課題になってて(昔も書いたけど)、それは俺自身まだまだ空気読めてない部分があるなーと思っているからなのだけれど、それを考えるときに、個性と空気読むこととは関係あるのか、ということを少し思ったのです。それ以来、何度か書こうと思ってたんだけど、うまく考えがまとまらないままに二度三度とリライトを重ねて今に至る。

「個性が強い人」という表現は、褒め言葉のときもあるけれど、そうじゃないときもあります。人それぞれ多かれ少なかれ個性っていうものはあると思うのだけれど、「個性が強い」っていうのは、良くも悪くも特徴的であるということで、波長が合う合わないで好みが分かれると思うんですよ。だから、波長が合う人が「あの人個性強いよねー」っていう表現をすればプラスの意味が含意されてるんだろうし、波長が合わない人が「あの人個性が強いよねー」っていう表現をすればマイナスの意味が多少含意されると思う。

でも、人間の多様性を考えたときに、どうも波長が合わないことのほうが多い気がするんですよね。本人がそれで納得しているのならばそれでいいのだけれど、他人の評価を気にする人とかは、そこで波長が合っていないと感じて、特徴を消す方向に走ってしまう。日本人にはこの傾向が強いと思う。場の空気を非常に重んじて、個性を消す方向に走ってしまう*1。で、そういうときに使われる語が「個性が強い」だから、どうもマイナスの含意の強い言葉のように感じてしまうんだよな。

今の日本の教育とかは個性を伸ばす教育とかを謳っているけれど、これって社会と矛盾していると思うんだよな。どういう過程で出てきたのかとかはわからないけれど、会社の中でうまくやっていくためにはどうしても個性を消さねばならないところはあるのだろうし(業界にもよるだろうけれど)、どうも寛容さが減ってきている今の日本では(他者を排斥して内輪で群れる傾向が未だに強い気がするのだよね)、そういう教育を真に受けて個性を強くした人は孤立してしまうような気もする。多分、海外とかを見たときに、海の向こう側では自己主張をすることが望まれるから個性を強くして世界に太刀打ちできるようにしよう、という想いなのかもしれないけれど。この辺は推測で話しているのでちょっと当を得ない。

自分自身が個性が強いのかどうかはわからないし、本当は個性が強くなりたいのかどうかもイマイチ良くわかってないんだけど、なんとなく、自分の中にはこの2つの間での葛藤というものがあるのかもしれないな、と思います。この2つって、多少なりとも関わりがあることだと僕は思います。自分自身を省みてみたときに、個性が強くなりたいかはともかくとして、空気を読める人間になりたいという思いは確かにあるので、多分その気持ちが、個性を打ち消す方向に働いているのでしょう。自分としては個性の強い人間になるつもりは、おそらく、あまりないのだけれど、自分が無意識なり意識的になりやっていることが他者に評価された結果が「個性が強い」と判断されれば、個性の強い人間とみなされることでしょう。個性の強い人間が、自分の個性に自信を持った上で揺るがないものとして持っているならば、それは強い武器になるんだと思う。けれど、そういうところに自信が持てないならば、それは打ち消しの方向に走ってしまうのだと思う。そういうところで、自分はまだ自分の「個性」というところに自信が持ちきれていないのかもしれない(そもそもそういうものがあるのかという話はあるけれど)。前よかだいぶ高いレベルでマシにはなってきてはいるけれど。

うーん。周りの人を見たり、テレビを見たりするたびに、ふとこのことが頭をよぎるのです。

結局なんか、いくつか言いたいことを混ぜ込んでしまったり不確かなことと確かなことを同じレベルで混ぜてしまったりして読みづらくなっちゃったけど、空気読みたいのは確かなんだ(笑)。これからも、その試みを続けることになるんだと思います。でも、空気読む読まないって、なんか日本人の国民病みたいだな…(笑)。

*1:結果、一億総中流になったのかどうかは知らないけれど