上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

飽きられたおもちゃの哀愁

飽きられたおもちゃとか見ると、せつなくなることがあります。

飽きられて押入れの奥に放置されてたりとか、庭とか倉庫の片隅で埃かぶってたりとかするのがふっと視界に入ったりしたときに。特に、かわいいキャラクターとかが描いてあったりすると、すげーせつなくなる。うーん、これってあんまり共感を得られそうにないのかな…(笑)。

多分、輝いていた時代があったけれど、今はもう誰にもかまってもらえない、っていうのが、せつなさの要因なのかな…。かまってもらえているうちは輝きを持っているけれど、いつしかそれが飽きられると、誰にも関心を向けられなくなる。そうなったときって、かまってもらえなくなったものって、とても寂しい気持ちになると思うのです。子供が成長して、もう役目を終えて、使わなくなってしまったおもちゃ。おそらく、作った人の想いとか、使った人の想いとかがそれぞれ込められているはずなのに、それはもう過去のものになってしまって、その時間を取り返すことは出来ない、そういうのがせつなさにつながっているのかなぁ、と思います。たとえばプレゼントであげたものだったりしたら、それはあげた人は、もらった人がどんな顔してそれを使って遊ぶのか、とかを想像しながら買うわけでしょ。で、実際、開けた瞬間の満面の笑みとかあるわけだ。でも、最初のうちはそうかもしれないけれど、そんな時間もいつしか過ぎ去ってしまって、次第に飽きられてしまう。そして、あげた人の記憶からも次第に忘れ去られていく。そうやって忘れ去られていったものって、とても寂しいと思うんですよね…。うーん、俺だけなのかなぁ。

ちなみに、個人的には、人間も、かまってもらえるうちが華だと思っています。飽きられた人間の寂しさって、想像を絶するものがあると思う。「あの人は今!!」みたいな感じで取り上げられるような人って、どう思っているんだろうか。寂しくないのかな。一時的にばーっと盛り立てられて、その頃は輝いていたし夢見心地になっていたかもしれないけれど、じきに飽きられて捨てられてしまった人々。そういうのはしかるべきときにしかるべき手立てを取らなかった本人のせいだ、っていう人もいるかもしれないけれど、僕は必ずしもそうではないと思います。そんな寂しい思いをするくらいだったら、逆に輝きなんてなくても良いのかもしれない、とも時に思ってしまう。過去が自分を縛り付けるだけになってしまうのだったら。まぁ、かまってもらえれば、の話ではあるし、視点が多少過去向きなだけなのかもしんないけど。

少し脱線しました。今の時代、サイクルが早くなってて、色んなものが生み出されては飽きられて捨てられていくけれど、忘れられていくものの寂しさ、というものに敏感でありたいな、とは思います。女々しいとか言われるかもしんないけどね。