上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

本との距離感

小説を読むときと、専門書を読むときでは、本と自分との間に置かれる距離が違うような気がする。

小説を読むときは、本からとても近い位置に自分がいるように思える。「小説の世界に没入する」という表現はこれに近いのではないか。ところが、専門書を読むときには、どうもそうはいかない。専門書を読むときは意識的、批判的に読まなければならないため、ある程度本の中からは距離を取り、自分をしっかりと保った上で読まなければならない。僕はその行為が苦手だ。ついその文章の書き手の言っている通り、誘導する通りになんの批判も持たずに頷きながらするすると読んでしまったり、逆に意識が遠くに行き過ぎて、頭では別のことを考えながらただ字面を追っているだけになってしまうことがあるのだ。集中力を保ちながら、適切な距離感を保って読み進めるのが苦手なのである。近さが一定にならず、ふらふらしながら読み進めていくことになる。だから、理解が濃い部分と薄い部分が発生してしまう。これはなんとかならないものなのかな。ただ、小説の場合にも、自分の波長と合う合わないによって、引き込まれ方が違う、ということはあるけれど。やはり面白い文章のほうが引き込まれてそのまま読み進めてしまうし、あまり面白くない文章は、時々本から自分が離れていって、現実の世界に意識を取られたり字面を追うだけになってしまうこともある。ただ、小説の場合にはどちらで読むかは好き勝手だけれど、専門書の場合には自分との距離感をとらなければならないので、そこにはやはり明確な違いがあると思う。

多分、本を読みながら意識が別のところに飛ぶ割合も、そういった専門書のほうが高くなるような気がするのは、そういう距離感の問題があると思うんだよな。だから、僕には、電車の中で本を読むような場合には、専門書のような文章は向いていない、と勝手に思っている。自分がある程度その世界の中に没入しないと、外の世界に気をとられてしまうのだ。隣の人の会話に耳をとられたり、幼児の泣き声に耳をとられたり。一度気になりだしてしまったら終わりである。小説の場合には、比較的、そういうことはない。のめりこむように世界に引きずり込まれると、周りの世界はほとんど気にならなくなることが多い。さらに、専門書を読んでいて眠くなることは結構あるのだけれど、小説の場合にはあまりそういうことはない。読み始めたら、読みきるまで読み続けてしまうことが多い。これも、本との距離感の近さ遠さの問題が関係しているんじゃないかと思うけれど。

前よりは多少マシになったと思うのだけれど、それでも、専門書を読むのが未だに苦手である。うーん、これは近いうちになんとかしないと、ヤバいぞ…。面白くない本を読む、ためにはどうすればよいのか。いや、本当は面白いはずなんだ。けれど、「読まなければならないもの」として自分の中で設定されたがために、それが面白くなく感じてしまい…。「自由意思」とはなんたるか、そういう方向にも話がつながっていきそうだな(笑)。この辺でやめておこう。