上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

親切とお節介

親切とお節介は表裏一体、というのは今までにも何回か言ってきました。これとか。

同じ行為をしても、親切と取られることもあればお節介と取られることもある。そこにある違いとは、相手がそれをどう取るかの違いでしかないのですね。だから、いくらこちらが善意をもってそれを行ったとしても、相手がそれをどう捉えるかにその判断を委ねるしかない。自分が善意だと主張したところで、相手がそれを迷惑と取っていたらそれはお節介以外の何物でもないわけです。

KYになるかならないか

今流行の、空気を読む読まないっていう言葉もまさにこれに当たると思うけれど。結局空気読めてるか読めてないかなんてのはそれを相手がどう思うかにかかっているわけであって、自分がどうとかはなんも関係ないわけでしょ。

そういうのは結局、人とのラポールがどれだけ形成できているかに依るところが大きいのでしょう。どのあたりまで許容されるか、ということを、自分の経験などと照らし合わせながら、相手の顔色を伺いながら見定めていく。親切とお節介を決めるのが相手の一存である以上、相手が判断を下すために用いている判断基準を推測するしかないのだけれど、空気が読めない人って言うのは、その推測が誤っているのでしょう。空気が読めるか読めないかは、「相手が持っている価値判断の基準」と、「私が推測した相手の価値判断の基準」がどれだけ近似しているかに依っているのではないだろうか。それを近いものに出来る人は空気読める人だし、それが大きく隔たってしまう人は空気読めない人である。

曖昧な部分の判断とそこから行き着く両極端の立場

少し話題の軸を戻すけれど、上の前提が正しいものだとして。

どの辺まで相手が「善行」と受け取ってくれるかの判断が割と明確に出来るところに関しては、さして問題もなく決断を下せる。けれど、問題は、境界線辺りに位置する曖昧なあたりである。「ちょっとこれはやりすぎなのかな、でももしかしたら、嬉しいと思ってくれるかもしれないな」というところ。私たちの生きているこの世界が、白か黒かはっきりしているとてもわかりやすい世界だったら苦労はしないのだろうけれど、この世界、実にグレーなことが多い。そういうとき、私たちは、「どうすればよいのだろう」と思い悩む。優柔不断な人っていうのは、このグレーの幅が広いのではないかな。ここまでは白、ここまでは黒、っていう判断基準が割と明確で、グレーゾーンの幅が狭い人は特に思い悩むこともないのだろうけれど、白か黒かの判断に対して慎重であったり、自信がなかったり、疑ってかかる人はグレーゾーンの幅が広く、結果的に、優柔不断で思い悩むことが多くなってしまう傾向にあるんだと思う。

得てして、グレーゾーンに陥ったときには、突き詰めて考えていくと、全部やるか全くやらないかのどちらかに行きつくんだと思うのです(止揚の概念は別にして)。白か黒かの両極端の部分を考えることになる。親切とお節介の例に戻ると、自分が正しいと思ったことならそれは正しいということにして、相手にどう思われるか関係なく推し進めるという立場が1つ。結局相手がそれを定めるのだから、相手からそういう要求がされたときにだけやればよいのであって、自分から主体的に何かを働きかける必要はない、という立場が1つ。グレーゾーンに敏感になり、どつぼにはまって厳密に考えようとすればするほど、結局はこの両極端に行き着くのだと思います。

そして、おそらく(これはあくまで推論だけれど)、空気読めてない人っていうのは、自分=正しい、っていうことにして相手を関係なく進めていくほうに傾きがちな人が多いのではないかという気がするけれど、それはそれで置いておいて。

グレーゾーンに対する自分の立ち位置

親切とお節介の例に関して言えば、どつぼにはまりこんだときには、結局何もしない、というのが有効なんじゃないのかな、と最近思っています。日常生活を送る中では本当はこんなことに思い悩む必要はなくって、適度にバランスをとってやっていけばよいのだろうけれど(割り切ってグレーゾーンを狭くしてしまえばよいのだろうけれど)、僕はしばしば考えていくと本当に収集がつかなくなって、結局半ば諦めのような形で、端点に行き着く。そういうとき、僕の場合は、1つの結論として、何もしない、というところに行き着くことが多いのかな、と思います。色々考えてみると、そのほうが穏便な結果に収まることが多いのだと思うし。

高校時代に、いつも帰りのホームから見えていた電光掲示板に流れていた格言に「よじ登ろうとしないものは、また、落ちることもない」というものがありました。ニュアンス的には若干異なるけれど、近いことを言っているのだと思います。ゼロからは何も生まれ得ない。大事な局面で何かしなければならないときに何もしないことによって生まれる損失というのもあるだろうけれど、それはまた別の問題。マイナスが起こっているときにプラスの働きかけをすることによって挽回することは必要だと思います。けれど、ゼロ地点にあるときに、無理して何かをしてマイナスにしてしまうことはないんじゃないか、ってことです。

何もしない勇気、っていうのも、時には必要なんじゃないのかな。そういうのって、相手には気づかれないし報われないかもしれないけれど、そのほうが状況が良いのだったら(少なくとも悪くなることがないのだったら)それでよい、という考え方もあるのだと思います。どうせ人の心なんて判る術もないのだから、知ろうとしたってそれは無理な話ですし。実際気づかれることは少ないけれど、そうやって自制することも大切なのだと思う。

ただ、おそらく僕自身これを完全に信奉しきっているわけではなくって、1つのアンチテーゼとして頭の中に想定しておくことによって、行動にブレーキをかける役目を負わせている程度のものなのだと思います。自分自身善行だと思って、8割方善行だと思われる事(いわゆる白黒はっきりしている事)に関してはおそらく行動に移すと思う。けれど、問題はそれが五分五分だったり、マイナスに陥る危険性がある事(いわゆるグレーゾーンにある事)なのであって。そういうときにどういう対応を取るかによって結果は色々変わってくるわけでしょ。そういうときの1つの視点として、これがあるのだと思います。まぁ、僕の中では割と大きい気がするけれどね。だから保守的だとか、安定志向だとか言われるんだと思うけれど。もちろん、そういう傾向が弱点にもなり得ることも認識した上で、状況状況に応じて、使い分けることは大事だとは思っていますよ。思っているだけで行動に移せているかどうかは疑問だけれど。

書きながら入れ替えたり切り貼りしてたらまとまりのない文章になった。

色々とシチメンドクサク書いてはみたけれど、結局は、バランスの問題に行き着くんだと思うわ(笑)。昔言ってた「バランスの取れてる人」っていうのは、結局は空気読めてる、っていうのともしかしたら同義なのかもしれない。この辺のバランス感覚がうまく取れている人というか。

自分が空気読めてる人間なのかどうかは知らないけれど(他人が判断することだからそれについて考えてみたところで全く答えなぞ出ないし)、まぁ高校の卒業文集でも似たようなこと書いたし、多分僕の人生に常に影のように付き纏っている問題なんでしょうな…(笑)。でも、昔よりはどつぼにはまることは少なくなった気がするよ。ある意味、割りきりが良くなったというか、諦めが良くなったというか…。それが歳を取るということなのだろうか。そんな気もするな。そこには経験も絡んでいるのだろうね。まだまだ足りないと思いますが、そういうところにも敏感になりながら、歳を取っていきたいものだ、と思います。