上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

友がみな 我よりえらく 見ゆる日よ

…「花を買いきて 妻としたしむ」は啄木ですが。僕もしばしばこういう気分になるときがあるけれど、それって多分、根底には自己憐憫が大いに含まれているように感じられてしまうのですよね。なんとなく、「働けど 働けどなお 我が暮らし」なんかもそんな印象がある。不器用とかそういうことがあるならまだしも。それ相応の働きをそれ相応のやり方ですれば、暮らしはもしかしたら楽になるのかもしれない。けれども、現状を把握していながら、それを改善しようとせずにまんじりとして自分の立場を「甘受する」方を選んでいるように思えてしまうのだ。ええと、英語なら"accept"のニュアンスで良いんだっけか。本当なら、もっともっと努力できて(あるいは別の方法でやればもっとうまくいって)、そうすれば暮らし向きも変わるはずなのに、そうしない、みたいな。

おそらく、自分がそうだからなのだろうけれど。

しかし、ここでとても重要なのが、上のような意見は、あくまで上の立場にいる人間にしか言えないということだ。正しい方法で努力すれば自分で道を拓くことが出来る、というのはもしかしたら理想論なのかもしれない。というか、かなりイデア界の話に近いのかもしれない。現状を見渡してみても、working poorの問題はまさにそれだと思うのだけれど。格差はどんどん広がっていく。努力できることは才能だ、とか言う人がいるけれど、そういう話は別として、確かにいくら努力しても、暮らし向きが向上しない世の中になっているのも事実だと思う。詳しく調べていないから良くわからないけれど。そういうことについてもむしろ詳しく知っておくべきなのだろうけれど。「上に行きたいなら努力しろよ」というのは強者の論理で、それはそうできる人はそうすれば良いかもしれないけれど*1、その論理が通用しないということもありえるのだと思う。というか、そういうことのほうが多いのだと思う。そういう状況を無視したままで、強者が「上に行きたいなら努力しろよ」、とか、「上にいけないのはそれは方法が間違っているからだろ」なんて言うことは、無責任だろう。本来ならば、そういう状況を是正する方向に社会が動いていかなければならないのだと思う。けれども、上のような論理ばかりがどんどん強さを増していき、結果として、格差が拡大していっているのが今の世の中ではないのか。そういう強者の論理で現状が解決できる、解決しようというような動きが垣間見えて、不安になる。

そんな中で、自分が漫然とこんなところにいて良いものかということも時折考える。与えられたものを活かさないのはもったいないと思うけれど、中には与えられていない人もいるわけで、そういう部分ってどうなのかなぁ、という気もする。うまくは言えないけれど。

啄木の歌によって何を感じるかは人によって相当異なってくるのだろうけれど、僕らにはわからない捉え方がたくさん背景に転がっているのだと思う。当時の社会背景を知ったり、啄木自身の生い立ちなんかを知れば、見方も変わってくる*2。だから、少しでも多くの物事を見知って、多くの視点から物事を考えられるようにならなければならないのだと思う。

別に、啄木の歌から今思いついたわけではないけれど(笑)。ってか、こんなに話が広がるとはいつもながら思ってもいなかった。啄木の歌は弱者のルサンチマンなのか。今度啄木読んでみようかなぁ…。

*1:そして多分僕はこちら側の人間に含まれている

*2:ただし、ポストモダンではそのようなものの存在は否定されるけれども。