上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

近況

知識の欠落

最近何冊か、本を読んでいる。自分の世界が広がっているのは事実なのだろう。ただ、自分の世界の拡大に、その処理が追いついていないのがとても残念だ。1つ1つに対し納得と諒解はするのだけれど、そこで終わってしまい、まだ自分の言葉にはならない。そのうち、混ざってしまうかもしれない。忘れていってしまうかもしれない。また、同じ本を読むにせよ、知識が不足しているせいで読み落としている部分がおそらくあるであろうこと、浅い読みにしかなっていないことも、物凄く口惜しい。どうせなら、全ての1語1句をぴしぴしと頭の中に埋め込んでいきたいのだけれど、僕の能力ではまだそれは叶わない。ただ、こういう少しずつの積み重ねによってしか、人間は前進していくしかないのだ、ということもおぼろげながらわかってきている。地道にこのようなことを積み重ねていくより他に方法は無いのだ。おそらく。基礎論の先生も授業の最初に言っていたけれど。

先人に学ぶ

先人の知識に触れることによって、1個人としての人間はそれぞれのstoryのもととなる部分を築き上げていくのだろう。これだけの数の人が生きてきたのだから、自分が不思議に思ったり、悩んだりした部分に関して同じように悩み、答えを出そうと苦悩した人はいるはずだ。最先端の技術に関することでない限りは。そして、それらの人たちの言葉を探し出し、自分のものにしていくことによって、1個人の人格は形成されていくのだと思う。それならば、幼い自身の無知な過去に拘泥することなく、世の先人たちの先見に触れていくことのほうが自分にとってどれだけためになるというのだろう。自分の考えることよりも他人の考えることのほうが正しい、という部分的な認識*1は、この辺りから出ているのだ。たぶん。独りよがりは良くない。

反省と後悔

如何にして執着を断ち切り、過去に拘泥することなく今を見据えることが出来るか。確かに、反省は過去からしか生まれない。後悔も過去からしか生まれない。その素材となる自分自身の経験は、自分自身しか持っていない。しかし、そこに対し、執着するのは得策ではない。そこから、今、そして未来の自分に必要な要素だけを取り出し、活用することによって、今ある自分の道は開ける。視点が過去にしか向いていないせいで、反省は後悔につながるのだ。視点を今に向けたまま、要素のみを過去から抽出し活かすことが要求されるのではないだろうか*2。当たり前のことを言っているように思えるけれど、実は、これをこなすことは並大抵のことではないように感じる。得てして、自分が後悔に陥っている状況では、その視点を今に向けることは非常に難しいことなのだ。ある特定の思考パターンを持つ人にとっては。

ざっと

こんな近況です。

世の中は理論や意見に溢れていますね。その中で、自分にとってどれがしっくりくるかを、如何にして選び取っていくのか、ということなのでしょう。その総体が、1個人になっていくのだと思います。

*1:ただしこれを一般化してはならない

*2:と、私は大槻ケンヂが小説の中で言う「執着を捨てる」とは、おそらくこういうことを言っているのだと勝手に解釈している。