上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

長岡祭り

今、長岡に居ます。兄が長岡に住んでいるので兄のところに泊まっていますが、3日とも仕事で居ないため、実質一人旅のようなものです。

行きの電車の中では、本を読んだり考え事をしたりしていました。長距離移動中の電車の中というのは、こういう作業にとても向いていると思います。穏やかで安定した思考を行うことができる。難解な本を読んでいても、割とするする頭に入ってきます。家で寝転がって本を読んでいても、こうはいかない。この状況を切り取って持ち帰りたいくらいです。

長岡は今日から3日間、長岡まつりです。

1日目の今日は前夜祭。夕方頃、ハーレーダビットソン30台くらいのパレードから始まります。カッコいいオッサンたちが運転していて、「あぁ、この人達はこのバイクに全てを注いでいるんだろうなぁ」と思って、なんだか羨ましくなりました。こういう場面でこういう人達の顔は、輝いています。晴れ舞台だからね。サイドカーを従わせ、回転灯とかホーンとかでごてごてに飾り付けたバイクの車列は壮観でした。交通安全のキャンペーンなんかでもパレードを行うんだそうです。

そのあとは音楽隊のマーチとか太鼓の演奏とか色々あって、民謡流しへと移ります。大通りで行う盆踊りのようなもの。各企業から人が出ています。小学校や地域の老人クラブなんかも出ています。露店でお好み焼きとエチゴビールを買って座りこみながら、企業の協賛っていうのは大切なんだなぁ、と思いながらも、そういう事業の一環として祭りに出て踊るということに対してどんな気持ちを持って踊るのだろう、とか、色々考えながら見ていました。熟練した動きに見えるのはどこが違うのか、とか、個性がここではどの程度大事なのか、とか。ラテン系の人が踊っていた踊りが、何故かやたらラテン系の踊りに見えて面白かった。うまかったのだけれど。どこか味付けが違う。

最後は神輿が出てきます。大通りを、こちらもパレードのように練り歩きます。トラックでここまで搬入されて、最後に宮入があるわけでもないし、神輿の形なんかもだいぶ違っていたりするのだけれど、それでも担いでいるのは「神輿」なんだろうなぁ、と思いました。民俗学的にいえば明らかにフォークロリスムス(民芸の二次的利用)なのだろうけれども。最後は宮入の代わりに交差点に全ての神輿(10基くらいあったのか)が集結して、市長だかの言葉で締めるのだけれど、そういうのは本来の神輿の用途とか(こういう言い方をすると語弊があるけれど)そういうものからは外れている。けれども、そこに対して人々がぶつけるエネルギーというのは、やはり非常に大きいもので、そこにある人々の意識というものは、一体何に向かっているのだろうなぁ、と思いながら見ていました。夏学期に取った民俗学の授業で扱った概念を頭に描きながら。宗教性ではないだろうし。結局、祭りの高揚感を楽しめるか否かにかかっているのか。

ついでに言うと、出てきた神輿の中に、男根神輿がありました。神輿の列の最後に出てきたのだけれど、これは異様な光景だった。ライトアップされた高さ2メートルほどの木製の男根が白装束の人達に担がれて練り歩く姿。初めて見ました。これまた色々思うところはあったのだけれど、なんと言うか、貴重なものを見たなぁ、という感じです。ちなみに、これはおそらく、栃尾の方から出てきたものと思われます。元はといえば、栃尾の方の小さなお祭りが発端だったんだそうですね。詳しくは「ほだれ」などで検索してみて下さい。

明日から2日間は大花火大会。日本三大花火といわれる花火を見て、果たして何を感じるのか。何を感じることができるのか。明日も兄は仕事なので、一人で見てこようと思います。