上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

意識の持ちよう

導入

勉強に対して「やらなければならない」っていう考え方を持ってしまうと、いかんせんやる気がなくなる。どうして積極的にやろうという気にならないのだろうか。本当は勉強だって、自分で意欲的にやるものは楽しいと思えるものが多い、のかもしれない。けれども、レポート課題や試験という形で課された場合には途端にやる気が殺がれてしまう。英単語の暗記なども同様のことが考えられる。必要な単語とか、面白い物語の単語などはスムーズに覚えるのだけれども、受験単語になると必死こいて覚えようとしてもなかなか覚えられない。けれども、これらはゲーム形式といった形に変えてやることによって克服できる人もいるし、目標を立ててそれに向かって努力し、達成感を得るといった一種の自己に対しての報酬を与える形式にしてやれば全然楽しくやれてしまうという人もいる。それはおそらく、満足感とか自己肯定感とかいったものにすり替えているからなのかもしれないけれど。つまるところ、これは意識の持ちようなのではないか。そのような巧みなすり替えを多用することによって、物事への取り組み方、受け止め方、認識を変えられるのでは無いだろうか。これが僕が割と良く口にする「意識の持ちよう」というイメージなのかもしれない。「超越」もこれに近い感覚。

意識上で消し去る

恐怖とか悲しみといった感情も本当に存在するのだろうか、ということもこれと関連して僕には想起される。死に対する恐怖といったものは一般的に誰もが持っているものであるとされるけれども、本当に意識的になれば、死に対する恐怖もさえ取り除くことが出来るのでは無いだろうか。ある意味、観念を麻痺させるようなイメージなのかもしれないけれど、死が持つマイナスのイメージを取り去れば、死が恐怖の対象ではなくなるのではないだろうか。意識の中ですり替えを行い、死に対して特に不都合となるものを持たないようになれば、死に対する恐怖感は理論上消えることになるのではないか??死への恐怖の強弱というものは人によって異なるのだから、中にはそれがゼロに収束する人がいてもおかしくはないはずである。というか、既にそういう人は死を選んでしまっているのかもしれないけれど。

例えば呪術を信じている人たちにはそれは物凄い恐怖の対象となるけれど、呪術を信じない人にとってはそれは何の恐怖の対象にもならない。それは実体を持たないから、といえるのかもしれないけれど、果たして本当に実体がないかどうかはわからない。実体はそこに信じている人がいる限り存在するのかもしれない。今それらを「非科学的」だとして退けている私たちがそれらに対する恐怖心を取り除けているのならば、逆に今度は私たちも死に対する恐怖を「科学的」に退け、無の境地へと追いやることは出来ないのだろうか??単なる物質の変化と捉えれば、私たちの死は根源的に何も変わりがない、はずである。ただ1つのものが別のものに変わるだけのことだ。という考え。

本能??

おそらくは、それに付随する痛みとかいったものが本能的に私たちに恐怖感を与えているのだろうし、また、種の保存としての生物の本能的な働きが死よりも生を選択させる方向に私たちを動かすのかもしれない。生理的なものなんかは避けられないのだろうか。けれども、それが本当に意識的なものならば、観念を自由にコントロールすることによってある程度物事の考え方を操作することは可能なのではないのだろうか。そして、それはどの程度のレベルまで可能なのだろうか。先ほど述べた勉強の例からしても、実際に「課題を嫌う大半の人間」と、「課題を厭わない一部の人間」がいることは事実である。マジョリティとしては後者は本当なのかよっていう目で見てしまいがちだけれども、多分実際にそういう人間は存在するのだと思う。っていうか、いる。

博愛の精神

ただ、そのような人々にもそれぞれ嫌悪の対象となるものはあるのであって(にんじんが嫌いな人もいるだろうし)、そしてそれは人それぞれ異なる。それらはどのように形成されるのだろうか。おそらく凄く根源的な部分にそのもとがあるので、容易に考えを変えるのは難しいのだろうと思うのだけれども(そうでなかったら、ほとんどの人は課題を好んでやるようになっているだろう)、それがもし可変なものであるとしたら、なるべく積極的な方向に変えたいものである。どんな物事に対しても嫌悪感を抱かないようになることが望ましい方向であると私は考えるのだが。そしてそれは意識の持ちようを操作することによって、どこまで可能なのだろうか??ということである。一時的には可能だけれども、それが恒久的に続かない場合も多い。実は好き嫌いなんて恣意的なものなのであって、博愛の精神をもってすれば全てが受け入れられるのではないだろうか。

なんかだんだん宗教っぽくなってきたけれど。けれども、そういう考え方をしている部分も僕のなかには存在するのである。ごく稀にだけれど。そういう考え方を恒常的に出来るようになると、嫌なことって言うのは世の中に存在しなくなるわけだから、バラ色に人生が送れるようになるのではないか??ってことです。嫌なことを嫌と思うのではなく、嫌なことも好きなことに変えてしまえば良いのだと。まぁ、現実はなかなかうまく行かないのだけれどね。

まとまらねー

布団の中で思いついたので、ふと書いてしまいましたが。思いつくままに書き連ねただけなので、まとまらない文章でごめんなさい。ってか小見出しをつけるのにすら苦労するくらいのまとまらなさ。ほんとだったら文章の順番入れ替えたりしてもっと読みやすい文にすべきなんだろうけれど…夜遅いからそのまま載せさせてください。段落ごとに小見出しつけて多少見やすくしたので、それで許してください。

結局

うーん、でもこういう風に物事を考え出したのはいつのことなんだろう。結局そういう風に考えながら、未だに僕は勉強を好きにはなれないみたいだけれど。これは生理的なものなのか。それとも、体に染み付いてしまった頑固な観念なのか。後者であって欲しいけれど。そもそも勉強って言う言葉が良くないよね。強いて勉めるっていう観念からして、そもそもそれが深く我々の頭の中にこびりついてしまっているのかもしれない。勉強って言うのは、強いられてやるものじゃないんですよ。…って、強いられないとやらないのが現実なんだけれど…。

本当に何とかならんものなのかねぇ、この意識。