上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

リアル

今日、グランプラス*1を初めて映像で見た。

最初にグランプラスについて知ったのは小説の中だった。僕の頭の中にあるグランプラスのイメージは、書かれた言葉によって紡ぎ出された、僕の記憶の中のイメージの総体によって成り立っていた。

実際の映像を見たとき、空間的に違和感を覚えた。画面の中のそれは、イメージの中のそれよりだいぶ大きいものだった。さらに、そこに存在する人、建物のライン、果ては空の色に到るまで、違和感は連鎖した。あくまで自分の中にあるイメージは、理想化されたものに過ぎなかったのだ。

しかし、これはあくまで画面という枠に切り取られた中での話である。おそらく写真に関しても同様だ。平板な世界を抜け出し、枠を取り払い、空気を感じ、奥行きを見通すことの出来る、実際の場所に立ったときにはそれはまた違う印象を受けるのは間違いないだろう*2。リアルな体験が身に与えるものは、きっと大きい。きっと、そんなリアルな状況で瞬間的に感じとったリアルな感動が上手に文章によって描き出されていたから、理想化されたイメージが僕の中に築かれていたのだろう*3

いつどこで起こるかわからないけれど、そんな直感的なリアルを求めているのだ、と思うことがある。ずっとそういう意識でいられるわけではなく、俗っぽいことを考えているのが普段なのだろうけれど、ふとした瞬間に訪れる「リアル」を見逃さないで捕まえられるように在りたい。余裕がなかったり方向性が逸れていたりすると、リアルな瞬間を見逃してしまったりもするのだと思う。リアルをリアルと認識出来ずに。この「認識出来ない状態」が長いこと続いているのではないかという不安が僕の中にはある。いざそれが来たときに、本当に捉えられるのだろうか?琴線に触れていってくれるのだろうか?という。

しかし一方で本当にそんな「リアル」は存在しているのかという疑問も頭を離れない。本当に「事実は小説よりも奇なり」なのか?鈍感になっているのではなく、実際にはそんなものは存在していないのではないか?そんな疑念。

結局のところまたしても捉え方の問題なのかな。考えすぎてる限りにおいてはリアルなぞ掴めないのかもしれない。もっと素直になってみても良いと思うのだけれど。しかしながら間にワンクッションもツークッションも挟むことにどうやら僕は慣れきってしまったみたいで、それは相当難しそうだ…。素直にならないと見えないものがたくさんあるであろう事はわかってはいるのだけれど…。

また面倒なこと書いた。直すなら第一歩はこっからだな…(笑)。

*1:世界遺産

*2:ただし、それがプラスであるとは限らないけれどね。概してマイナスなことの方が多い気がする。

*3:そういう意味で文章は便利だ。見たくないものを簡単に取り除いてくれる。