上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

手の抜きどころ

何事も丁寧にやれば良いというものでも必ずしもない。

昔ある工場を個人的に見学させていただいたときに、鉄板部分について「他の会社の作ったものとは明らかに精度が違う。光の反射具合とかを見ただけでもわかったりもする。でも、それって、良く言えばきっちりしているということだけれど、手の抜きどころがわかっていないということでもあるんだよね」って言われたことがある。そのときはまだその分野に参入し始めて2年とかそこらだった気がするのだけれど。

もちろん、丁寧にやるに越したことは無い。しかし、コストの問題もあるだろうし、もっと手をかけなければならない部分に手をかけていない可能性もある。それは、その後様々な試行錯誤を経て修正されていくのだろう。その辺は、いつもながら「バランス」の問題だろう。適切なバランスが取れるところまで試行錯誤を重ねる必要はある。

しかしながら、丁寧にやる必要のない部分を丁寧にやる必要は本当にないのだろうか。その辺が個人的には気になるところである。「機能的に問題がない」という観点からすれば同じ性質を持ったものでも、「見た目」とか「細やかさ」といったものはある確実な要素としてそこに存在する。概してそれらは数値としては表れないものであり、評価されにくい部分でもある。また、そちらに多くの部分を割いた結果として本来の機能が失われた場合、現在の世の中的には割と批判的な目を向けられることが多いと思うのだけれど、それに対しても少し疑問を投げかけたいところではある。実利主義でゴリ押しして良いものなのか。

そうはいうもののやはり、それと反対方向の価値観は依然として強い力を持っているのであり、ここで葛藤が生じる。

本末転倒になってはならないけれど、その辺のバランスの取り方は結局のところ、個々人の価値観の問題につながってくるんじゃないのかなぁ、と思ったりもする…。結局またここに帰着してしまうのか。

「遊び」の部分が多くって一意に定まらない、グレーゾーンが広めな考え方に対しての対処が未だに苦手らしい。根本的な要因は、気分次第でいる位置が変わったりすること。どちらの自分に対しても反対方向のベクトルを持った意志が働く。結局いつまで経っても納得して落ち着くことが出来ない。こういうどうでもいいことを笑い飛ばしてくれることを必要としているのかもしれないと、最近思う。必要…なのか、はまたわからないというか定まらないというかなのだけれど…。