上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

確定

やっぱり、知らない間に色々変わってしまっているのかもしれんね。

それが想像していたとおりであれ、想像していなかったとおりであれ。もちろん、確実に将来を予想することなんて誰にも出来ないのだけれど。でも、昔からは想像もつかない未来に今こうして立っているのだろうけれど、それが想像にそぐわなかったとして、プラスの方向にもマイナスの方向にも働いている。当時マイナスのように見えていても、今となってはプラスに感じられることもたくさんあるのだろうし。その逆で、今はすげープラスに見えていても将来的には実はマイナスだった、なんてことだってある。

だから、多分全てに片がついて清算を迎えるときっていうのは、自分が死ぬときだと思うんですよ。そこで初めて全ての価値が「確定」すると。それまではプラスがマイナスに転化する危険性も孕んでいるし、マイナスがプラスに化ける可能性も秘めている。割と普段から思っている持論なのだけれど。

ちなみに、ここでいう価値とは「自分にとっての」価値であって、「世間的な」価値ではない。もちろん自分の死後も、自分抜きの世界で色々と価値は変化します。ピカソとか、生きている間は不遇でも、今となってはあれだけの評価を得た人物なわけですから。そりゃあ、誰だって死後も良かったように思われたいだろうから、もちろんそれも大事なのだけれど、とりあえずここでは、考える主体としての自分の中でのことを考えてみます。死んだ後の世界っていうのは、あくまで自分抜きの世界の話ですから。自分が死んでしまった後では、いくら他人が何を言っていたって、自分には還元できないわけで*1

だから、死ぬまでは、すぐに価値を断定するのを避けたいというように思うことがたまにあるのです。なんか凄い凹むことがあっても、長いスパンで見ると自分のためになっているのではないかと。それは明日になればわかるとかそういうレベルの話ではなく、1ヶ月の時だってあるし、はたまた1年、10年とかそれくらいのレベルでわかることだってある。無駄なことなんて1つもないんでしょう。そんなもんだと思うと、結構実はあらゆることに決断を下すことって、それはそれで必然でしかないっていう気にもなれると思うんです。やってみなければわからないし、それがどういう結果になったとして、その後は如何様にでも変わってくる。その時点の最善の策が必ずしも永久的な最善の策であるとは限らない。最悪の結果が最悪の結果であるとも限らない。

全ての価値は死ぬその瞬間に確定する。そのときに、「良かった」と思えるように生きたい。結果として、いつ死ぬことになっても、その時点で満足できていれば良いのではないかと思います。そのために今をこうして生きているのだと。

うまくまとまらないけれど。こういうのを僕の「死生観」というのかどうかはわからないけれど、なんとなくそういう価値観が僕の中の一角にあることは確かだと思います。常々こう考えているわけでもないけれど。実際問題、こう考えることは「逃げ」なのではないかと思うこともしばしばありますし。もちろん、この問題に関しても今でも葛藤は僕の中に存在します。矛盾とか葛藤だらけですから(笑)。

なんか文章では伝わりにくいので、実際に話すなら話してもらったほうがいいと思いますね。リアルな世界で。

*1:ただし、天上から地上界を見下ろすことが出来るのならばそれはそれで別だけれど。