上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

大衆

周囲の考えだとかものの見方だとかと言うものは、どうしても気になってしまうものである。

たとえば

持ち家志向、なんていうのもそれにあたるような気がする。たとえ借家でも、利便性のいいところにあればそれで十分な気がするのに、日本においては多少利便性が悪くても、「自分の家を持つこと」を皆が標榜する。維持管理の問題とか周辺との関係とか金銭的な面とか色々な面もあるし、自分自身そういう立場に立ったことがないからあくまでも例として挙げるにすぎないのだけれども、少なくともそこには「世の中一般的な考え」が絡んでいるようにも思える。「自分の家を持って一人前」みたいな考え方が日本には古くからあって、未だにそれに縛られていると言うべきなのか。利便性がいい借家でも十分じゃない、って頭の中では理解していても、でもやっぱ自分の家欲しいっしょ、って考えてしまうように。人間としての本能的な所有の欲求なのかもしれないけれど。

それは別に家に限ったことではなくて、今話題のニートとかフリーターに関する問題にも少なからず関係していると思われる。「定職に就いて働く」ということを当然のように考えている風潮が根底にあって、そこに縛られているようにもどうしても思えてしまう。もちろん、収入とか保険の問題だってあるし、勤労の義務も憲法で定められてたりするし、それは必要なことだと思う。けれど、なんか安易に「世の中一般的な考え」にあてはめられて批判されていることも多いように感じるのだ。「どうして駄目なのか」の理由は後付け的についてきて、とりあえず「定職に就かないやつは駄目だ」みたいな考え方ばかりが先行しているように。

良い悪いでなく…

最近は社会が変質してきているのか、考え方が多様化しているのか、そういうものに縛られない若者が増えてきている。いわゆる「自分が満足していればそれでいいんじゃない」的な考え方。ここで僕はそれが悪いとかそれが良いとか言いたいのではない。

自分の中にも、そういうものに縛られている部分があることがしばしば感じられる。大衆に迎合している部分が。自分ではそれでも良いと思いたいのに、どうしても大衆を意識してどこかで納得できていない部分が。資本主義社会の中で身の周りにあふれている巧みな広告に意識させられているのか、それとも自分の中の本能的な見栄とかそういったものが許してくれないのか。損得は同じくらいで、考え方によってはもう1つのほうが良いんじゃない、と考えたときにも、もう1つのほうが大衆的な意見に近いと、どうしてもそちらに左右されてしまう。「良いものは良い」とすっぱり割り切ることが出来ないのだ。頭の中に大衆の影がいつもちらついていて、迷いを生じさせる。

フォロー

全ての面においてそれが起こっているわけではないと言うのはわかっている。もしそうだったら個性なんてものは跡形もなくなってしまうし。だけれども、自分の納得できない部分においてもそれが発生しているのが気がかりなのだ。嫌いだ、と言ったほうがよいのかもしれない。それを取り去ることは出来ないものか。多分、出来ないと思う。

そして、出来ないこともまた、良いことなんだと思う。もし出来るようになってしまったら、社会は崩壊してしまうだろうし、集団行動なんてものも出来なくなってしまうだろうし。適応性もなくなってしまうだろう。嫌いではあるけれども、多分それってなくてはならないことなんだと思う。そのことが嫌な場合にはどうしても悪い面ばかり見えてしまうけれど、見えない良い面だって絶対にあるのだ。

いつもそうやって納得させるのだけれど。