上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

往生際が悪い

私の周りでブログをやっていた人はひとり残らずブログをやめてしまった。そんな中、懲りずに細々と思い出したように何かを書いている。往生際が悪いのかもしれない。

高校3年の時に始めた1行日記、大学1年の時に始めた家計簿(手書き)を未だに続けている。その日何があったか、誰と何をしたかをただ書き連ねているもの。ほとんど、見返すことはない。その間に世の中にはレシートを撮るだけで簡単に家計簿にしてくれるアプリまで出てきてしまった。未だに手書きで続けていることの意味とは。そもそも、読み返しもしないし、何かの役にも立っていないのに、日記と家計簿をつける意味とは。

人間は何かと意味を知りたがる、意味をつけたがる生き物なのだと思うのだけれど、仕事の帰り道、歩きながら、「生きる意味ってなんなんだろうなぁ、何のために生きているんだろうなぁ」と、たぶん人生で何千回目くらいにふと思った。さすがに30もゆうに過ぎて、思い悩むようなものでもないけれど、ふとした拍子に、ちょっと頑張れないな、というときに、はたして何をよりどころにすればよいのだろう、と思うことがある。そんなことを考えるのは、たぶん今が夏のど真ん中で仕事的にも生活的にも割と余裕がある時で、「考える余地」があるからなのだろう。

よく子どもが質問してくる「勉強する意味」についてはようやくなんとなく答えが出つつあって、たぶん、「しかるべき時にしかるべき判断が出来るようになるため」なのだと思いつつある。判断の根拠となる知識もそうだし、その知識にたどり着くための思考回路もそうだし、判断した結果を思いやる想像力も全て勉強の賜物。後悔しないため、不幸になる人を減らすために、然るべき判断が出来るようになるためには、ひたすら勉強しなければならないのだ。学問的な勉強も、人生的な勉強も、あらゆる勉強は結局そこに通じていると思う。ただ、「正しい判断をした結果、だからなんなのか」ということについては言葉を濁さざるを得ないのであって、それを問いだすと、全てが瓦解する。「正しさとは何か」とかと同じ問い。その辺がたぶん究極的には生きる意味だとかそういうのにつながってくるんじゃないかとぼんやり思う。

今のところの最適解に一番近いもので、高校の時の教師が言っていた「真善美の追求」というものがある。これまで色々そういうものの本は読んできたつもりだけれど、ぼんやりとこれについて頭を巡らせているとき、これがぽんと頭に浮かぶということは、やっぱり自分が(今のところ)一番納得しているからなんじゃないのかと思う。でも、それが大正解でないのもわかっていて、やっぱり、そのために生きられるかというと、うーん、そうじゃない、と思ってしまうのも事実。

まぁそんなことを色々考えながらも、結局は今日も1日こうやって(意味もなく)生きられたのであって、結局やっぱり、往生際が悪いのかもしれない。風呂入って寝よ。