上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

日常

今週7日あるうちの3日、シャワーも浴びずに帰ってきたときの恰好のまま寝ていて、夜中に目が覚めた。いつの日かの父親の姿が目に浮かぶ。当時の父親と今の私とで違うのは、それに対して小言を言ってくれる人の存在。幼い時はそんな母親の小言が口うるさく聞こえて嫌だった。そして今でも、たまに帰省するとそんな母親の小言は耳につく。けれども、そういうことを諦めずに飽きずに言ってくれるというのは実は大切なことなんじゃないかと最近感じる。

ずっと同じところをぐるぐるとあてどもなく回り続けていて、未だにそこから抜け出すことが出来ずにいる。そんなあり方にほとほと嫌気がさしているのだけれど、そこから抜け出す術を見つけ出せずにいる。あるいはもしかしたら、小さなカタストロフくらいは繰り返しながらいるのかもしれないけれど、行き着いた先は結局ほとんど変わりのない世界なんじゃないかと思う。少なくともその中にいる私からは、そのように見える。たぶん、その世界の中に私を閉じ込めているのは、ほかならぬ私自身なんだと思う。

東京オリンピックの開催が決まり、周りには多くの意見が溢れている。あらかた興奮した意見が多い。けれどもそのニュースを聞いて「へえ、そう」くらいで済んでしまった自分がいて、そのことに悲しくなった。決定の瞬間に喜びの感情を爆発させている人たちがいて、早くも7年後の姿を語る人たちがいて。なんかそんな人たちの熱気を、遠巻きに、醒めた目で眺めている自分がいて。自分も向こう側に行きたいんだろうけれど、向こう側に行くことが出来ないでいて。そこにあるものとないものの違いが、結局小さく閉じてしまった世界と外側とをつなぐ扉なんだと思うんだけど。

高校3年生のときにはすでに、こんな感じだった。遠巻きに、一歩引いたところから眺めている自分。そんな光景を、今に至るまでいくつも思い出すことが出来る。最近は、周りで起こっていることおおよそすべてにこんな感じで接してしまっている気がしていて。日々が作業化していて、そこに魂はあまりこもっていない。今更、変わるもんなんだろうか。