上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

誰かの為に何かを

今日は終業後、まだ残っている上司に頭を下げてこそこそと会社を出て、先輩がご家族とその知人のためにプロデュースした一夜限りのジャズナイトに行った。主演はジャズバーを経営する先輩の父親と音楽留学した妹。そこに父親の知人と、妹さんの留学時代のご学友、という構成だった。ピアノ、ベース、ギター、ボーカルの4人で、様々な曲をジャズアレンジして届けたとても素敵な2時間だった。

そもそも先輩がプロデュースしなければ開かれなかったジャズナイト。転勤で5年ばかりを過ごしただけのルーツも何もない新潟の地で、色々な客を集めてこういう場を作れる、作ろうとするエネルギーに、なにか酷く揺さぶられた。正のものを産み出そうとするエネルギー。そこに集まり演奏を聞けた人たちにも、そして、披露する場をもらって持っているものを披露出来た演者も、皆が幸せになれる場。きっと、労力もお金も相当にかかっているはずだ。それでもなお、このような場を開催するには、相応のダイナモが要る。そこにあるものは。

ふと、先日実家に帰った際に感じた感覚と同じだ、と思った。無償の愛、に近い。「誰かの為に何かを」というエネルギー。

今の私に絶対的に欠けているものはこれだ、と悟った。面倒臭さが先行し、やらなくてもいいことは極力やろうとしない。自分の趣味関心、もっと言えばその日の気分だけで動いている。ものすごく、内向き。後ろ向き。私の行動には、この「誰かの為に何かを」が決定的に欠けている。そこはかとなく感じる空しさの一因でもあると思うけれど。プラスのものを産み出そうとするエネルギーに酷く欠けている。そこには、他者の姿が全く絡んでこない。表面を通り過ぎるだけ、ただひたすら自己完結のみで、淡々と日常が進んでいく。

帰り道、自分を酷く恥じた。胃が痛む。でも、昔からこうだったようにも思う。今更失望にくれる。「誰かの為に何かを」。ここが変わらないと、どうにも泥沼を脱け出せそうにはない。わかってはいるんだけど。

素敵な場だったはずなのに、心の片隅に自己嫌悪が引っかかって取れない。素晴らしい場であればあるほど、自分の空虚さがより強調されて重くのしかかってくる。まずは行動から変えなきゃ駄目なのかな。