上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

得ること、失うこと

何かを得る、というのは、同時に何かを失う可能性を手にする、ということと同義である。

小さい頃から、なんとなくその恐怖心が頭の片隅にあった。誕生日、クリスマス。自分のずっと欲しかった物を買ってもらった日は、寝る前に決まって、次の朝もし起きたときにそれが消えていたらどうしよう、という思いに捉われた。手に入れた物を枕元に置いて、何度も確認しながらでなければ、眠りにつけなかった。

いつしか、その恐怖心を反らす術を身に付けた。失って困るものは持たない。あるいは、失っても困らないよう、心に予防線を張る。入れ込まない。小さい頃は、買ってもらったものが嬉しくて嬉しくて、それが同時に失う恐怖心をも駆り立てていた。ならば、失っても困らない、悲しまないもので身の回りを固めればいいんじゃないか。代替性のあるものだけを身の回りに置けばいいんじゃないか。失うのが怖くなるほど、入れ込まなければいいんじゃないか。何かを得ようとする、というのは、同時にそれが得られなかったときにダメージを受ける可能性も一緒に引き受ける、というのも同じ種類の話だと思う。結局、失うことを恐れて、求めることをしなくなっていた。失敗することを恐れて、挑戦することをしなくなっていた。どこかに、留保、担保を置こうとしていた。

それを繰り返すうちに、だんだんと、冷めた人間になっていった。いつしか、「本当に欲しいもの」「何がなんでも手に入れたいもの」がなくなっていた。自分が、本当は何が好きなのか、わからなくなっていた。物に限らず、人も、地位も、立場も、そして、夢も。夢を語らず、希望を持たず、何事も、なんとなく、で済ますようになっていった。自分に、他人に、期待するということを、しなくなっていた。判断基準が、消去法になっていった。

それは、所詮、逃げに過ぎない。本当に替えの効かないものは確実にあって、しかも、本当に追い求めようとしないと得られないものが、そこにはあるのだと思う。失うことを恐れて逃げてばかりでは、確かに傷つかないかもしれない。けれど、いつまで経っても、その先にあるものは得られない。何か大切なものを得ようとするのならば、喪失への恐怖に打ち克たなければならない。純粋に何かを欲している子供を見るとき。輝かしい幸せな家庭を見るとき。普通ならば、ほほえましさをもってその光景を眺める。その裏に常に潜む喪失をそこに見る必要はどこにもない。けれど、ふと頭をよぎる。起こらないかもしれない、その可能性が。目の前の全力の輝きだけを純粋に信じられればいいのだけれど、そこに喪失の影を差し挟むようになってしまったのは、いつからなんだろうか。

行き先を失った船は、ただあてどもなく海原をさ迷い続け、陸地にたどり着けぬまま、いつしか海の底に沈んでいく。幽霊船となって、自分が幽霊船になっていることにも気がつかないまま、霧に包まれながら永遠に海を漂い続けることにならないように、たどり着くべき陸地を定めるべきなんじゃないですか。その先には、きっと、想像とは違うかもしれないけれど、それなりの陸地が待ち受けているのだと思うのだけれど。そして、その陸地の先には、見たこともない新たな海が開けていると思うのだけれど。