上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

「みんなに来る明るい未来」

先生が言った“みんなに来る明るい未来"
誰がウソをついた?
ぼくがウソをついた    スガシカオ「カラッポ」

ここんとこ、少し年上の先輩方から、もうちょっとすれば時代が来るからもう少し我慢して待て、そうすればやりたい放題だ、みたいなことを言われる機会が多い。

まぁそれはそれとして理解できる部分はあるんだけれど、一方でもうちょっと待つんじゃ俺の理想的には遅いんだよ、って思う自分がいる。もうちょっと待ったら待った分、そこから始まる未来も先延ばしになる、ということだし。理想と現実、需要と供給、環境とタイミング。現実は現実として目の前にあるのが全てで、それ以上でもそれ以下でもない。残念ながら、環境は所与のものでしかない。限られた現実の中で、どこかで妥協をしつつ、かといってその妥協でのちのち後悔しないようにしつつ、バランスを取りながら決断をしていかなければならない。妥協した現実に合わせて満足するように自分の考え方を適応させてしまう傾向があるだけに、入り口はなるべく高い位置に設定しておくべきであると思う。

来る保証のない明るい未来に希望を抱いて待ち続けることが果たして必ずしも吉であるとは思えないけれど。待ち続ければいつかは必ず明るい未来は来る、と無責任に言う人がいる。得てして、そういう人の大半は、自分の成功体験から物を語っているだけに過ぎないように思える。大抵、そういうことを言う人のほとんどは既得権者だ。そりゃあなたはそうやって成功したかもしれないけれど、あくまでそれは「あなたの」成功サンプルに過ぎず、環境も状況も違うのにどうして確信をもってそう言えるのですか。希望を持たせるためにそう言ってくれる気持ちもわかるけれど、そうやって希望を持ち続けた結果が想像しているものと違っていたら、あなたはどうやって責任を取ってくれるのですか。結局高みからぽとっと落としている言葉に過ぎないんでしょ。だったら無責任に必ず明るい未来は来る、なんて軽々しく言わない方がいいんじゃないの、という気持ちになることがある。ひねくれ者、っていうか、なんかこう斜に構えてる気がして大抵その後自己嫌悪に陥るんだけど。

当たり前のことだけれど、人の話は人の話として参考程度に聞いておいて、最終的には自分が責任を持って判断するようにする、というスタンスを結局どこまで取っているか、っていうことなのだと思う。人の意見を根っから信用するわけではなく、あくまで1つの情報であると捉えるべきだ、と思っている。結局最後に信じられるのは自分の判断である。人の意見を盲信していたら、それで失敗したときに人のせいにしかできない。人の意見はあくまで参考程度にして、最後は自分の判断をすれば、失敗したときの責任は全て自分に所在することになる。もちろん「盲信する」という選択をするのは勝手だけれど、「盲信する」という選択をした自分に対して責任を持つようにすれば、それを人のせいにすることはないはずだ。そのほうが、なんとなく生き方として正しいように思える。素直ではないけれど。

自分自身、自分が正しいなんて到底言えないから、人に何かアドバイスをするときは「あくまで一個人の一意見だけれど」という注釈をつけることが多い。そこには主観というか主張をあまり挟まず、中性的な、客観的な情報にするように努めているけれど、そもそも私という個人が人に対して何かを言っている時点で、そこに何かしらの責任問題は発生するのだからね。

とはいえ、まぁ、単純に冒頭のような言葉を言ってくださるのは嬉しいことだ。なんだかんだ言っていながら、色々な人の話を総合的に判断して、客観的に見てその確率が高い、のは事実に近いのかもしれない、と思っている自分がいるのも事実だし。現状よりは、ね。結局、希望がないと今を生きる気力もわかないわけだし。そのために、今を一生懸命より良い方向に持っていこうとしているんでしょう?そう思うしかないじゃない、真っ当に考えたら。