上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

人間関係

自分は割と好き嫌いは少ない方だと思ってきたけれど、最近、自分が思っている以上に自分に「合わない人はいる」のだなぁ、と思うようになっている。前もどっかで書いたかもしれないけれど。

時々、「え、なんでこの人こんなこと言えるの?」とか、「え、なんでこの人こんなこと出来るの?」とか思って思わず苦笑いが出てしまうことがある。個人的なスタンスとしては、そういう人たちのことを排除して非難するわけではなくて、世の中には実際問題そういう人がいて、ただ単純に感性が合わないだけなんだと思って、会った時とかはそれ相応の反応をするけれど、特にこっちからはそれ以上深くは立ち入らないようにしている。「好き」の反対は「嫌い」ではなく「無関心」とは良くも言ったもので、否定するわけではないけれど、長いこと触れていると自分が間違っているんじゃないかとか思ってイライラしたり不安になってしまうから、なるべく見ない、触れないようにして、さらっと流すようにしてしまう。人の価値観なんてそれこそ多様で、どれが正しくてどれが間違っているなんてものはないし、その人のことをなんやかんや言えるほど私自身偉いわけでも正しいわけでもない。私が違和感を感じていても他の人はそう思っているわけではない、ということは往々にして有り得るみたいで、他の人たちはその人たちの反応を別に普通に受け止めているように見えることが多い(表向きにそうしているだけかもしれないけれど)。え、ひょっとして、違和感感じているのは俺だけ?とか思って、表向きは素知らぬ顔をしながら、実は内心首を傾げて、「うーん、これ俺が間違っているのかな…」と、自問自答を繰り返している。もちろん、私が他の人をそう思うのと同様に私に対してそう思う人もいるのだろうし、それは当然のことである。繰り返すけれど、ひとの価値観なんて様々なのだから。

そんな中で、より「苦手だな」と思うのは、パーソナルスペースを考えず自分の距離感だけでずけずけと他人の領域に入ってくる人なのだな、ということに最近気がついた。自分の主張を押し付ける、というのもそれに近い。初対面の人とか、最初はちょっと距離を置きつつ、相手の反応を見ながらちょっとずつ距離感を伺い、お互いに「あ、この人とこの領域ならも少し踏み込んでも大丈夫だな」って思ってから、探り探りだんだんと近くなっていくのが普通の感覚だと思うけれど、時々、会ってちょっと話したらもうあなたはトモダチ、みたいな感覚の人がいる。あるいは、こちらから何らかの遠回しのメッセージを発しているはずなのに、それに気づかないのか、気付かないふりをしているだけなのか、変わらず距離感を詰めてくる人もいる。距離感は距離感として適切に保ちたい部分なのに、こっちのその距離感を考えず、自分の好みやら主張やらをどんどん放ってくる。それがちょっと苦手で、押し付けがましさ、を持っている人は、ちょっと遠慮がちになってしまう。ちょっとその辺に敏感に過ぎるきらいがあるのかもしれないけれど。

トモダチ申請

最近、SNSの普及に絡んで、そう思うことが多い。

SNSのトモダチ申請って、そういう凄く微妙な人間関係の機微の領域に触っている気がしている。そういうのに内心苦手さを感じている人って、実はたくさんいるのではないだろうか。

あんまり仲良くない人とか、内心苦手だと思っている人から簡単にトモダチ申請されると、私みたいな人間はちょっと居心地が悪くなってしまう。別に拒否するほど嫌っているわけでもないのだけれど、こっちから積極的にかかわりを持ちたいわけでもない、という人。前述したような、ちょっと「苦手だなぁ」と感じてしまうような人。でも、拒否したりするとなんか相手にも悪いし、とか思って、結局承認することとなる。昔同じクラスだったとかで接点はあるけれど、今となってはほとんど接点がないし交流もない人と単純に名刺交換的な感じですると割り切るんだったら、なんとなく心理的に負担は少ない。一応「トモダチ」関係にはなっているけれど、特にこっちから相手の何かに対してリアクションするわけでもないし、逆に相手もこちらにリアクションするわけでもない。そういう関係だったらそれはそれで簡単だ。お互いがそういう合意の上に成り立っているんだろうな、と思えるのならば。合コンにおける次の有り得ない「また飲みに行きましょう」メールみたいな、ね。

けれども、そういう距離感を考えずに、個人的なアクションをしてくる人がいる。私が考える「そぐわない」リアクションをしてくるときもある。いや、そんなつもりじゃなかったんだけどな、そういうリアクションをされるとこっちとしても困っちゃうんだけどな、的な。あとが続かない、とか、そう捉えちゃうの、とかね。普通自分が何らかのアクションをするときって、それに対するリアクションをある程度は考えたうえで発信すると思うのだけれど、そういうリアクションがあると、なんとなく首を傾げてしまいたくなる。前述した単に「合わない人」が書いてるだけのことだったら、別に見なければいいだけの話だから良い。タイムラインがそういう大抵私にとって「どうでもいい話」で埋まっていって、ただただ時間を浪費するだけにはなってしまうけれど、それはそれでパーソナルスペースを侵害するわけではないから、特に「不快感」をもたらすわけではない。問題となるのは、やはり、パーソナルスペースを侵害するアクションを起こしてくる人のことなのだと思う。

そんなときは「制限」機能を使って、相手に自分の書いた内容を制限させることが出来ます!拒否じゃないから、相手にも不快な思いをさせずに済みます!なんてSNS側は書いていたりするけれど、人間関係って、そんな簡単なものではないでしょ、と思う。相手だって自分が制限されているっていうことがわかれば嫌な気持ちになるだろうし、自分だって相手に制限するのってなんとなく気分が悪い。それをドライに割り切れる人間だったらいいのかもしれないけれど、そんな簡単な気持ちで人間関係が作れるわけではない。拒否さえしなきゃいい、ってもんではないでしょ。そういう人間関係の機微って、それこそグラデーションのように何十段階、あるいは何百段階にも分かれているものから適切な対応を選び取ったうえにうまく成り立つもので、簡単にざっくり線引きできるものではないと私は思っている。それこそ、車の運転におけるアクセルの踏み方、ブレーキの踏み方みたいに、繊細なタッチが要求されるものなんじゃないか。大して考えずに数段階くらいであしらうことも可能は可能だけれど、時と場合に応じて、繊細なタッチを使い分けるのが、人間関係を良好に築いていくためには必要なんじゃないの、と思う。

そんなことがひとしきり続いて、うーん、やっぱり俺が間違っているのかな、とか思うようになってくる。

恐怖心

なんでこんなにたくさん書いてきたか、っていうと、別にそういう人のことを非難するわけではなくって(繰り返すけれどそれはそれとして仕方のないことだと思っている、人間だもの)、それと同じことを自分は相手にしていないんだろうか、っていう恐れが頭から抜けなくって。人のそれは他人事だと思って割り切れるけれど(なぜなら自分には他人のそれを変えられるような権利はないから)、自分の話になるとそうもいかない。自分のことは割り切ってはいけないと思う(なぜなら、自分のそれは変えられる権利も義務もあるものだと思うから)。

一応「自分がこれをしても許されるんじゃないだろうか」と思っている人には、自分から何らかのアクションをしているけれど、でも相手は本当にそれを嫌がっていないのかな、と思って、たまに、いや、結構臆病になる。実際そう思って、ためらった末に結局何もアクションしないこともある。書き込んだ後になって、「あー、これ俺ちょっとやりすぎたのかなー…」って思って悶々とするときもある。摩擦を恐れては何もできないのも事実だけれど、そういう空気の読み方が出来ないことを恐れているのもまた事実だ。相手の気持ちを推し量ることって、とても大事だと思うのだけれど、とても苦手に感じている部分の一つ。相手側が何らかのリアクションでそれを教えてくれるのならば、まだいい。言外にそれとなく匂わせてくれれば、こちらもそれに気づいて自分から身を遠ざけることが出来る。けれども、もし、相手がそのメッセージを発信してくれなかったら。相手が発信しているメッセージに気がつかなかったら。自分がそのメッセージに気がついていないんじゃないか、っていうのが時々凄く怖くなる。完璧にそれが出来るのはもちろん不可能な話だから、そう思っていてもうまく立ち回れていないときもあるのかもしれない。おそらく、あるんだろう。けれども、少しでも最適解に近づいていけるよう、努力していくしかない。そして、それを可能にするのは、それでもやはり、周りのサンプルを注意深く見ながら、人のフリ見て我がフリを直していくしかないんじゃないかと思う。それこそ、こういう違和感を感じる部分で、すり合わせをしながら。おそらく人間の社会性って、そうやって培われていくものなのだと思うから。ストレートに言ってくれればどれだけ楽なのか、って思うことも多々あるけれど、ストレートな物言いをしないで遠まわしに伝えられるのも人間関係の良さなのかもしれないし。気付くことが出来れば、の話だけれど。

何が正しくて何が間違っているんでしょうね。果たして正解なんてものはないと思うけれど、おおよそ正解に近い部分にいたいな、とは思って、今日も頭を悩ませるのです。あー、こんな偉そうなこと書いてながら、自分自身にもこういう性質多分にあるんだろうな…と思って、悲しくなりますね。道のりは遠い。