上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

折り合い

ほぼ日のこんな記事を見つけた。

「糸井さん、僕を面接してください。」

世の中には色々な人がいて、色々な要素を持った人がグラデーションのように折り重なっている。ぼんやりと、似た感じだな、って思う人にも、決定的な違いはあるし、全く違うタイプの人だな、って思う人にも、同じ要素を見出すこともある。様々な場面には、その場面ごとに必要とされる要素があって、「就活」という場で必要とされるのは、仕事で必要とされる要素だ。どれが、って決定的にいうことはおそらく出来ないけれど、世の中にはそういうスキル的なものをまとめたものの本が多数出回っているように、そういうのがぼんやりとあるのは事実なんだろう。個人的に、仕事の場っていうのは、言い訳の利かない戦場のようなものだと思っていて、「結果がすべて」という言葉は個人的にはあまり好きではないのだけれど、それを受け入れざるを得ない世の中である。生きるか死ぬかのサバイバルの場に、御託は必要ない。仕事をするうえで必要な要素っていうあるひとまとまりみたいなのがあって、それが揃っている人の方が戦場では重宝されるし、生き残っていけるのだと思う。

各々が持つ「譲れない要素」というか、性格のコアな部分を形成している要素が、世の中を生きていくために必要な要素とお互いに干渉せずに結びついてくれるならばそれは幸運だ。そういう人は、おそらく自分が属している世界で生き生きと働いていける。けれど、世の中には、それがうまくいかずに要素同士が干渉してしまう人がいる。なんとなく、うまくなじめない感を感じている、というか。それでも、干渉していることを認識し、うまいことを折り合いをつけられる人はそれで良い。自分の持っている要素が今いる世界で生きていくうえで不向き、必要のないことだと冷静に認識することが出来、それはそれ、これはこれ、と割り切って、その上で世間で必要とされているであろう要素を身につけられる人は、おそらくどの世界でもうまいこと渡っていける。不向きな部分は不向きな部分として割り切る必要があるけれど、だからと言ってその部分をすべて否定して、捨て去れと言われているわけではない。その他の部分はもちろん残しておきながら、その上で、サバイバルに必要な力をつけていけばいいということである。しかし、世の中には、不幸と言っていいのかわからないけれど、それをうまく切り分けられない人がいることも事実なのだと思う。世の中で求められている要素と自分の中の要素が異なっていることを自覚出来ていない人もいるだろうし、自覚は出来ているけれど切り分けることが出来ない人だってたくさんいるんだと思う。そうした人は、要素同士が干渉してどちらもうまいこと行かなくなってしまう場合がある。

そういうときに、どういう道を取るのか。自分の要素は自分の要素だと割りきって、合わせていくスキルを身につけるのか。それとも、自分の要素が生きる全く別の世界で生きていこうとするのか。結局は、どちらかになんとか合わせていかねばならない。自分の持っている要素っていうのは変えられないものなのか。自分の中では不可変なものとして捉えていても、意外と簡単に変えられるものなのか。個人的には、結局コアな部分っていうのはそう簡単に変わるものでない、と思っている。世の中を生きていくのに必要な要素、っていうのは不可避なものとしてあるのは事実だ。それを無視して生きていけるほど、この世の中はおそらく甘くはない。自分の持っている要素と、それが生かせる場のどちらもしっかりと認識して、それを手に入れるための努力をして手に入れるのが理論的に考えれば最善の道だ。けれども、全ての人にそれが出来るかっていうと、そうじゃないんだと思う。結局のところ、自分なりに悩んで、探して、自分の落ち着くところを探していくしかないのではないだろうか。

他の人の考えていることなんておそらく完璧にわかることは出来ないけれど、それでも少しでも人の気持ちに立てるようになりたい。正論は正論としてある。それは事実だ。けれども、そうでない部分を抱えて生きているのがおそらく世の中の大半の事実だ。それはそれとして、至極当然のことであるし、あってもいいものだと思うけれど。正論は正論として認識しつつ、正論だけで片付かないところを拾い上げられるような、そんな感性を持っていたい。甘い、って言われちゃうんでしょうけれど。