上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

恐怖と想像力

ひょんなことからネットで未解決事件だとかアンダーグラウンドな話だとかのまとめサイトに辿りついてしまって、しばらく目が離せなくなってしまった。

恐怖は想像力だと思う。昔、石川遼が爆発物を仕掛けた、という不審な電話があったときに言っていた。「想像すれば怖いけど、想像しなければ怖くない」。

小学生の頃は、ある種の「得体のしれないもの」に対する恐怖心が心のどこかにあった。小さい頃は闇が怖いけれど、それはおそらく、闇の向こう側にいるのではないか、という恐怖感なのだと思う。お化けや幽霊を怖がるのもこのくらいの頃だけれど、まだ自由な発想力があるころには、そうした「未知のもの」への想像力が無限に掻き立てられる。このころに感じている恐怖のおそらく大半はそういう類の恐怖で、わけのわからないものに対して自分の中で恐怖心だけを増大させていく。正体がわからない、ということが不安で仕方がない。むしろ、実際にテレビの向こう側で起こっていることに対してはあまり実感を持たずに眺めていただけなのかもしれない。良くも悪くも、想像力の自由度が高かったのだ。

小学校高学年から中学、高校くらいになると、そうした「未知のもの」への恐怖感が、理論的に論破できるようになる。自分の中で、そうしたある種の空想力と言ってもいい想像力が、色々とものを知るにつれ、次第に現実的な範疇に狭まってくる。作り出したもの、作り出されたものに対して距離感が出来、「この世に存在しないもの」は「この世に存在しないもの」として冷静に捉え、恐怖の対象からは外れてくる。代わりに、現実に起こり得る可能性に対して、強い恐怖を覚えるようになる。世の中で起きたショッキングな事件に対して、それが自分の周りに起こるのではないか、という恐怖感が心の中に芽生えてきて、不安をもたらす。通り魔が流行った頃。中学の授業中、教室に刃物を持った男が乱入してきたらどうしよう、という可能性を考えついてしまい、その可能性を頭から消せなくなって、無性に恐怖を覚えていた記憶がある。「起こり得る可能性」への恐怖。起こらないとは言えない、ということからもたらされる恐怖。想像力が現実的になってきた分、その対象は現実世界の暴力に向けられるようになるけれど、それによって現実世界に存在する恐怖がわかるようになってくる。そして、このころの想像力はおそらくまだ非現実寄りの想像力も紛れ込んでいる、狭間な領域にあるのだと思う。だから、画面を1枚隔てた自分とは関係のない世界で起こっている出来事が、突如自分の世界に起こる可能性を想像してしまう。そんな狭間の想像力で、衝撃的な事件に対して、たまに強い恐怖を覚える。アメリカの同時多発テロの日も、西鉄バスジャック事件の日も、夜中に起きて眠れなくなってしまったのを思い出す。私の中学高校の頃は、時々、そんなことがあった。

大学に入り、いつしか、そんなこともなくなった。もはや、そういう可能性に対して無用な想像を巡らせて、無用な恐怖を覚えることもなくなった。自分自身の思考スタイルを省みて、考えても無駄なことは考えないようにしてきたのも一因としてあるのかもしれないけれど、恐怖の質が、もっともっと身近で、現実的なものにアジャストされてきている、というのもあるのではないか。あくまで自分と遠い世界で起こっている出来事はそれはそれとしてあったことであり、自分の身に映してそれを考える、ということをあまりしなくなった。衝撃的な事件のニュースを見た時には、それが起こったらどうしよう、ということを考えて無意味に恐怖心を引き立てるのではなく、それが起こったら私はどんな対応をするのだろうなぁ、というさらに現実的なことをぼんやりと考えるだけになった。ニュアンスはちょっと違うかもしれないけれど、めったに起こらないんだし、起こってから考えればいい、というようにも思える。「現実はこんなものだ」という世界観が自分の中で出来ていて、そこで起こり得る可能性はある程度自分のものになってしまっているのだ。これまで生きてきた中で一通り考えた、通り過ぎてきた恐怖心に対しては、自分の中で対処法、抗体のようなものが出来ているのかもしれない。自分がどんなときに恐怖を覚えて、どんな反応をするのか、というところまで、もしかしたら無意識のうちに諒解しているから、そこまで恐怖が膨らまないのかもしれない。「自分が想像する範囲」を想像できるようになった、というか。

猟奇的な事件が怖いのは、おそらくそれが私たちの常識の範疇を超えているからだと思う。私たちは、自分が理解できないものに対しては恐怖を覚える。猟奇的な事件は不気味な影を帯びていて、そこには私たちの常識的な想像力ではおよそ理解できない不可思議なものが紛れ込んでいる。それが、私たちの恐怖心を掻き立てる。けれども、その「わけのわからない部分」というのも、可能性というか、ある程度まぁ人間として起こり得る範囲の中にひっくるめて想像力の中に収めてしまえば、それはそれでなんとなく自分の中に取り込めてしまう。人間色んな人がいるんだもの、そういうことも起こり得るよね、実際そういうことはあったわけだし、という風に思ってしまえば、何かが起こってもまぁありえなくはないんじゃないのかなぁ、というある種の醒めた反応をするようになってしまうのかもしれない。長いこと生きていくうちに、こういうことが起こり得る、という可能性の見積もりが経験則的に取れるようになり、その可能性の低いものについてはあまり考えることをしなくなる。一度感じたことのある同質の恐怖については、同じ恐怖を覚えないようになる。そうして、恐怖心が薄れていく。

そういう意味では、私の想像力は年を経るごとに現実的になっていて、むしろ醒めている、というか、一歩引いたところから眺めている、くらいの感じになっているようにも思える。昔は想像力を巡らせては同時に恐怖を覚えていたけれど、最近はそんなことすら考えることもしなくなった。先のまとめサイトをぼんやりと眺めていて、そんなことをふと思った。身近なところについて起こり得ることを考えるだけにとどまっていて、その先にある、ある意味「変な」可能性を考えることがなくなってきていた。余計なことまで頭を巡らせなくなっている。恐怖、といっても、この先仕事がなくなるかもしれない恐怖や、仕事で理不尽なことが起こった時に感じるであろう恐怖など、そういう卑近で現実的な恐怖しか頭に浮かばなくなっている。それは得体のしれない恐怖ではなく、得体の知れた現実的な恐怖だ。それが、歳をとる、ということなのだろうか。

トイレに行くために寮の部屋を出た。節電のため電球が間引いてある暗い廊下を歩きながら、ふと、「この曲がり角を曲がった先に、刃物を持った男が立っていたら…」ということを考えた。ちょっとだけ、昔感じたのと同じような恐怖が、頭を廻った。