上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

他人のために何が出来るか

他人のためにどれだけ役に立っているか。この考え方は、私の生きる意味の一部分を構成していると思う。

何らかのおぼろげな形でいいから、「誰かの役に立っている」ということが感じられるのが、私を動かす原動力になっているのかもしれない。自分の中にある自分の生きる意味、存在価値なんて、自分の認識次第でいくらでも変えることが出来る。簡単に否定できるものだ。極端な話、自分の中でそれをゼロだと思ってしまえば、自分の中だけで閉じた世界の中では生きる意味は簡単に失われてしまう。いや、これは極端な話でもなんでもないのかもしれない。ちょっと気分が落ち込めば、誰だってこうなる可能性は秘めている。けれども、もし他人の中に自分の存在価値があって、それを自分が信じることが出来るのならば、そこに救いがあるのだと思う。他人の中にあるそれって、自分の力だけでは簡単には変えることが出来ない。だから、他人がそれを肯定してくれるならば、自分の力以外で自分の存在する意味を認めてくれる何かがあるということになる。そういうわけで、他人の中に自分が存在する意味を作ることが出来るのならば、そういうものが自分の外にある、と自分の中に実感し、信じることが出来るのならば、それはなんとなく多少は安心に足る材料になるのだと思う。ある種の「担保」というか*1

ちょっと話は逸れるけれど、一方で、それを自分から求めてしまうことにつながってしまうのは良くないことだと思っていて、それが押し付けがましさにつながっては駄目だと思う。私は「自分頑張ってますアピール」が嫌いで、やりたくないと個人的に思っている。実際には、しばしばやってしまっていて、やった際にはかなりの高頻度で自己嫌悪につながることなのだけれど。とりあえず自分が頑張っているときに、それを認めてもらいたい、評価してもらいたい気持ちは人間としてわかるんだけど、それを表だってやってしまっては良くないと思う。なんかあたかも自分頑張ってるんだけど、わかって、みたいなことを端々に含ませながら発してしまうときがあって、「大変だねー」とか、「お疲れ様」なんて他者から声をかけられた瞬間に、自分がそれをやっていると気がついて、なんかすごく、ぞわぞわして、逃げ出したくなる。自分より頑張っている人は世の中にたくさんいて、全然まだまだやれるはずなのに、安易に自分を認めてもらいたくなっている自分の小ささに、不真面目さに気がついて、調子乗ってんじゃねえよ、と存在を消してしまいたくなる。今はSNSとか自己発信のツールが整っていて、さらにそういうことをしてしまいたくなるけれど、これは出来る限りやりたくない。確かに精神衛生上、適度に認めることは必要なのかもしれないけれど、それを人に対して求める姿勢、「媚びる」姿勢は排除したい*2。この「見えるところでそれを実感したいけれど、見えるように求めてしまうのは良くない」というあたりの難しさはあるけれど、そこの「承認欲求」を乗り越えられるようになると、人間としてまた1つ大きくなれるのかな、という気がしている。残念ながらまだまだ小さい人間なので、見返りを求めてしまうのだけれど…。

話を元に戻す。だから結局は、目に見える形で、信頼関係に基づいた人間関係をしっかりと作って、安定したい、というのが私の希求なのだと思う。社会生活的な面で言えば、就職の面接の際にもそれを言ってきたし、自分なりにそういう点を重視して会社を選んだつもりだ(もっとも、必ずしもそれが達成されるとは限らないのは、企業で働く者の常である)。それ以上に、プライベートにおいても、それは強く希求しているのだと思う。「多対個」の関係と「個対個」の関係で性質は違うと思っていて、最近思うのは最終的に自分がイメージするのは「個対個」の関係なんだろうな、とは思うけれど。残念ながら、自分が不真面目であるがゆえに、現状が満足いく状況になっているとは到底そうは思えないけれど、少しでもそうなれるように努力し、自分自身が生きていく意味を作る上にとってプラスに働き、他人にとっても何らかのプラスを与えられるのであれば、双方にとっていいことなのかもしれない。利他的なことをしているように見えて、実はものすごく利己的なことをしている。

…書き始めた時にはそう思ってたけど、これ、ホントに心から言ってんのかな。偽善ぶっていい人ぶって言ってるだけじゃないのかな。

*1:もちろん「他者の中にそれがある」と認識するプロセスの中にも、私自身の認識は挟まってしまうわけで、そこにも問題は介在しているのだけれど。

*2:…と言いながらいつまで経っても直らない自分の欠点。直そうともしてないのか、と言いたくなる。