上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

守りの姿勢

だいぶ、守りに入ってしまっている。

もともと性格的に、守りに入る傾向は強かったのだと思う。これまでは、周りの人に良い意味でそそのかされて、巻き込まれて、色々な経験をし、その過程で成長してきた。それは凄く幸運なことである。しかし、それは自分の力で望んで経験してきたことではなく、あくまで周りにもたらされてきたものだった。これまでは自分が厳しい道を選択しなくても、ある種周りにそれを与えられてきた部分はあった。しかしここのところ、そのような環境から遠ざかっていて、凄く守りに入っているのだと思う。環境が変わったとき、自らの能力を過信してしまい、知らず知らずのうちに、ある意味、挑戦を避けてきた。自分の今ある能力だけで何とか出来る範囲内でしか生きていない。その外に出ることを、無意識のうちに避けている。

人間、そのような環境下では成長しない。今いる地点から、先に進むことは出来ないのだ。

昨日卓球をしていてそう思った。勝負の世界は勝ち負けが明確に出る。昨日は3勝2敗だった。2敗は、実力的に勝てると踏んだ相手と、実力的に全く敵わない相手。どちらもそれなりに言い訳をしようと思えばいくらでも出来る。けれども、そこで言い訳をしていてはそこから先には進めない。悔しさが湧かないようでは意味がない。環境のせいにするのは簡単だ。実際、もはやラケットを置いたも同然の身なのだから。けれども、いくらそれを理由にしたところで負けは負けだ。目の前にある壁を、乗り越えられなかった、ということなのだ。

社会に出ると、壁は卓球の試合のように明確に目の前にわかりやすく出ているものだけではない。自らの中で壁を設定し、それを乗りこえる努力をするのは凄く難しい。この歳まで生きてくると、努力しなくても何とかなってしまうことに、ある程度気がついてしまうからだ。言い訳もいくらでも思いつく。人間は安きに流れる生き物である。けれども、そこで敢えて一踏ん張りして、もう1つ先に進めるか。最近歩みを止めてしまっている。壁に突き当たらないように生きている。けれども、壁の先にある景色はそれでは見えてこない。まだ守りに入るには早いんじゃないのか。乗りこえるべき壁を自らに課す必要がある。

安きに流れない。今年の目標に、意味を再付与しつつ。まだまだ、変わる余地は十二分にあるはずでしょう?