上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

期待

最近世の中に期待しなくなった。前からちょっとその傾向はあったけれど、最近ちょっとその傾向が強い。

「こうあるべきだ」的な発想をしなくなっていて、「こうしたほうがいいかもしれない」くらいに留まっている、あるいは、それすらも曖昧に。もう、「まぁ、そうしたほうがいいとは思うけど、別にしなくても仕方ないんじゃない」的になっている。自分に対しても、自分を取り巻く世界に対しても、その接し方が。「ま、そんなもんでしょ」みたいな。「人それぞれの勝手でしょ」にも近いかもしれない。

もともと、正しい、と思いこむことがあまり得意ではない。正しさって、絶対的なものじゃないじゃん。世の中一般的にぼんやりとした「正しさ」のかたまりみたいなものはあっても、それは絶対的な形を保持しているわけではない。結局、正しさってのは自分の中での規範に留まるのであって、自分が行動するときにそれをよりどころにするけれど、自分の外に対してそれを押し付けることは出来ない、と思っている。もちろん世の中には自分が首をかしげたくなるようなことを「正しい」と主張する人がいて(必ずしも自分がすべて「正しい」わけではないので、それは当然のことだ)、そういう主張に触れた時には、相手の主張が「正しくない」と突っぱねるか、自分の主張が「正しくなかった」のだと自分の考えを改めるかのどちらかを取らなければならない。その繰り返しでぼんやりとした「正しさ」が各々の中で形成されているんだと思う。おおよその場合、そこでどっちが「正しい」のか、白黒をはっきりつけようとするのだろうけれど、最近は、その判断を曖昧にしてしまっている傾向が強い。どっちも「正しい」可能性はあるんじゃないの、と。もしくは、ある程度の判定はつけるのだろうけれど、その是正にまでたどり着かなくなっている。別に「正しくなかった」からといって、まぁいいか、みたいな。

これは、自分に対して、というのもそうなのだけれど、世の中に対して、特に顕著なのかもしれない。「正しさ」は、あくまで自分の中だけで保持されていればよい、と考えていて、世の中に対してはそれを求めていない。自分の中での「正しさ」の追求、というか、上で書いたような、世の中の「正しさ」と自分の「正しさ」を突き合わせて自分のそれを是正する働きを止めるつもりはまだあまりないけれど、その結果自分の「正しさ」のほうが正しいな、と判断した場合でも、だからといって世の中が「正しく」あるべきだ、とは思わなくなった、というか(ちょっとまわりくどくてごめんなさい)。許容、というより、諦めの幅が広がったのかな。「正しさ」には色々あって、俺はそうじゃないと思うけど、結果世の中はそうなってんだからいいんじゃないの、っていう感じ。結局何が「正しい」んだかは人によって違うんだし、全ての人がその「正しい」ことをやっているとも限らないんだし。実際にすべての人が「正しい」ことをやっていれば、世の中はもっと「良く」なっているはずだけれど、そもそも何が「良い」んだかもわかんないんだからさ。

半ば諦めにも近くなっている。ちょっと、考え方的に危険と言えば危険。

例えば、震災後の対応を1つ取ったとして、色々な事象に対して「ああするべきだった」と言う人はいっぱいいるけれど、それは基本的には各々の中にある「正しい」対応を期待していたからだと思う。そういうものがおおよそあるとして、けれども、その時そういう風に対応が行われなかった事実があるので、非難とかが噴出することになる。その結果世の中は「良くなるべき」なんだろうけれど、どうにもそれを信じられなくて、それを、そういうものとして受け入れてしまっている、というか。良かった悪かったとか、正しかった正しくなかったとか、そういうことを後から言って感情的になってもちょっと仕方ない部分はあって、あるものをあるがままに受け入れるしかないんじゃないの、と。ただ、これは、自分がほとんど被害を受けなかったから言えることではあるけれどね。もちろん、完全に投げてしまっているわけではなくって、冷静に是正できる部分は是正した方がいいとは思うけど、そこに絶対性を見出すことが出来ない、というか。「〜するべきだ」じゃなくて、「〜したほうがいいんじゃない、と俺は思うけど」くらいのニュアンス。

期待しなければ落胆することはない。大抵、期待ってやつは感情と緊密な関係を持つ。自分自身、一時期感情の振れ幅を抑えようとしてきた時期があったので、その帰結として、ある程度必然的にこうなった部分はある、とは思っている。フェイルセーフなんでしょうね、きっと。そうでない結果が出た時にも、自分が傷つくのを防ぐための仕掛け、というか。

けれど、この考え方をすると前に進む推進力に欠ける。仕事的にもそうだし、私生活的にもそうだし。現状を「改善しよう」という意欲に欠けるという、結構「好ましくない」結果を生み出す。少なくともビジネスマンとしては取るべき態度ではないのだろうし、人間としてもあまり取るべき態度ではないのかもしれない。この態度は「正しくない」んだろうな、と、世の中一般を見て、おおよそのところで評価しているし、理解はしているつもり。なので、あんまり「向こうサイド」に振れすぎないように、バランスを取ろうとしているところ。

なんでこうなったんだろうね。自分の中の「正しさ」だけではまかり通らない事柄に触れてきた結果がこうなっているのかなぁ。あるいは、自分の中の「正しさ」を、あたかもそれが当然であるかのように平然と主張する人に触れてきた結果がこうなったんだろうか。最近こういう自分の考える「正しさ」がぐらつかされる機会が多くて。「正しさ」を多少なりとも標榜しながら生きてきたけれど、実はそうやって生きてきながら、自分は「正しい」方向に向かっていないんじゃないか、って思うことがある、というのもあると思う。でも、まだ今住んでいる国が日本という国で良かったみたい。海外に住んでいたら、こんなスタンスじゃ到底やっていけないでしょうから。おそらく、すぐに、潰されてしまう。某国みたいに、それこそ正義の押し付けを公然とやっている国もあるわけだから。こないだ職場の休憩室でNHKスペシャルの「クジラと生きる」を見た時にもちょっと思ったけど。文化相対主義とかその辺の議論にも近いのかもしれない。

甘いんですね、世の中への接し方が。こういう態度を時々「優しさ」と勘違いしてくれる人がいるけれど、俺はそうじゃないと思う。ただ、甘いだけなんじゃないかな。