上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

生きること

1月17日、阪神・淡路大震災から14年が経った日でした。

時々、生きる意味なんてあるんだろうか、とか考えてしまったり、それに似たようなことを人に言ってしまうときもあるけれども。

こういうことがあったことを思い出すと、絶対に生きなければならないな、と思います。

なんか、意味とかそういうのは、考え出すとこんがらがってしまうし、いつも極端な答えしか出てこなくて困ってしまう。「生きるとは何か」とか、「死ぬとは何か」とかなんて、色々と考え出すと、本当にわけわかんなくなってくるのだ。意味なんてないように感じてしまうし、時には積極的な正を見出せなくなったりもする。

けれど、こういう状況下では、そういう意味とか理屈とかは、関係なくなる。「生死」が、剥き出しになる。そういう中で、みんなが、生きようとしている。その中で、叶えられなかった、願いがある。

色々余計な理屈を考えることが出来るというのは、余裕があるからこそ出来ることなのだ。生きる余裕があるからこそ。とても、贅沢なことだといえる。悩むこと、考えることというのは、今自分が満ち足りた立ち位置にいるからこそ出来ること。

生死というのは、そういう理屈を越えたところに存在するのかな、と思ったりします。

「生きる」というのが、自分で選択できるような主体的な行為ではなく、「生かされている」という考え方に近いのかな、ちょっとうまく言えないけれど。

色々とうまく物事が言葉に出来ないけれど、とにかくそう思う。そう思い続けられる限り、僕はここにいるのだと思う。自分に積極的な意味を見つけ出せなくなるときがあったり、色々と理屈をこねたりすることもあるけれど、そうした意味や理由を越えたところに、こうした生死はあるのだと思う。だから、生きなければならない。

なんか色々と、うまく言葉に出来ていないように思います。ごめんなさい。

犠牲になられた多くの方々に、改めてご冥福をお祈りします。