上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

言葉の暴力と慣れの危険性

年末年始って割と自分の趣味嗜好に合う記事が多くって、新聞読むのが楽しいんですが。

その中に、ちょっと気になる記事があって。

1月1日の朝日朝刊の30面の記事。ぼやき、毒舌、悪態といったものが今の世の中には溢れていて、それを「欲望に直結した言葉」として大衆の求めるものである。今のメディアはこうした差別用語的なものを自主規制しているので、それに関する不信感がある、と。その反動として、大衆はこうした暴言に群がっている、という主旨の内容。

他者との関係性

その中で、人が群がるこうした言葉として

  1. 岸部四郎の自虐ブログ
  2. 野村監督のぼやき
  3. 大阪府東京都知事の暴言

を並列に扱っているけれど、この3つでは、他者との関係性が介在している度合いが大きく異なるのだと思う*1。僕だけかもしれないけれど、これがあるとないで、出来ることは大きく変わってくるものだと思う。

相手に負を与える言葉

一般的にこういう暴言系って、相手に対する攻撃というか、相手に「負」を与える行為だと認識しているのだけれど。

まず1の自虐に関しては、これは一方的に自分に対して負を与えているだけだから別に良いのだと思う。少なくとも僕は、そう思っている。自虐、自己嫌悪など、自分にその矛先が向かう行為は全てそう。それを見ることによって、周りの人が心配したりだとか、そういう負の側面を生み出してしまうことがあるのは事実だけれど、少なくとも、自分の側から直接的、積極的に相手に負を押し付ける行為ではない。

その一方で、2の野村監督のぼやきは、形式的には、他者との関係性の上において、負の言葉を相手に投げつける行為である。けれども、これは、相手に対する教育的配慮が含まれている、という点でまだ相手のためになっている、ともいえる。負の言葉を敢えて言うことによって相手に負を押し付ける行為である点は事実なのだけれど、彼の場合には、それによって相手が奮起し、結果として相手の成長につながる、という意図がある。監督自身が以前言っていたことで、相手によって「無視、称賛、非難」を使い分けるという話がある。「三流の選手は無視、二流の選手は褒めて育てる、一流の選手は叱って育てる。」ということである。その点、相手の奮起を促しているという点で、相手のことを見ている分まだその意図があるものと思って良いのだと思う。

けれども、中には自分の欲望をそのまま出しているに過ぎないと見えてしまうような言葉もあるわけで。3の知事の方々の言葉は、この類のものであるように思えてしまう。言葉にも使いようっていうものがあるし、相手の感情を逆撫でするだけの言葉みたいなものもある。公の場で、「クソ」とか「ババア」とか言っちゃダメでしょ。それは相手の奮起を促しているようには見えない。ただ単に、自分の好き嫌い、物事の見方だけで、一方的に相手に負を押し付けているだけの行為のように見える。言葉が他者との関係性の上で成り立つ、相手に解釈されるものである、ということを鑑みておらず、ただ自分の内外、という観点だけで見ているような気がしてならない。

「笑い」

「笑い」にもこれを認めることが出来る。「笑い」は時として暴力を含む、というのは結構いろんなところで言われている話だ、と思う。笑いにはいくつか種類があるけれど、基本的には、誰かを貶めて、その人と差が生まれたところでその状況を笑うというタイプの笑いが主流なんだと思う。笑いには結構この手の笑いが多い。負を押し付ける行為によって誰かが自分とは違う位置に立ち、その結果その相手が笑われる。この点で、これも先に述べた言葉の類と同様に扱えると言えるだろう。

自虐タイプはその貶めの矛先が自分に向かうだけだから、相手の感情が下がることは無いのだと思う。この点で、自虐タイプの笑いは相手に負を押し付けるものではない。もちろん、その自虐によって別のタイプの不快が呼び起こされる可能性はあるけれど(えがちゃんとか笑)、自分以外の他人を負の位置に落とすわけではなく、あくまで自分が投げつけた負で負に落ちるのは自分なので、負に落とされたものが抱く負の感情は自分の中で消化できる。このタイプは上の言葉の場合でいえば1にあたる。

一方で、他者との関係において他者を貶めるタイプの笑いは、相当紙一重なところがあって。上の2と3にあたる部分。笑いの場合には、相手の活躍を奮起するみたいなそういう意図はない。ものまねが良い例にあたると思う。ものまねって、実際相当際どいラインをいっている。多分相手との信頼関係に頼るしかないのだけれど、相手にリスペクトがあればいいか、といわれれば、そういう問題ではないこともある。実際、山本高広の物真似はそれが紙一重の線の向こう側に行ってしまった例でしょう。あとは、貶められた相手が注目を浴びるからそれによって正が生まれる、という見方もあるけれど(いわゆる「おいしい」ってやつ)、それも相手がどう捉えるか次第。最近テレビを見ていると、「ハゲ」とか「デブ」とか、平気で罵り合っているようなのも良く見られる。個人的な趣向だけれど、こういうのは見ていてあんまりいい気がしない。

日常的行為

最近、この3番目の類のものが非常に多いな、ということを感じていて。最近に限ったことなのかどうかは知らないけれど。昔からあったような気もするし、実際あったとは思う。あるいは、自分があまり好きではないから目に付くだけなのかもしれない。

他者との関係性において言うならば、負の押し付け先が特定の誰かに向かわずに、中空に向かって発散していくような類のものも存在する。それを巧みに行っているのが、落語なんだと思う。落語の登場人物は、誰か特定の人物であるわけではない。架空の人物を描き出し、そこに対して巧みな人物描写を行うことによって笑いを取っている。これは、他者との関係性の中において成り立つものだけれど、その他者が架空の人物であるという点で、誰か特定の人が負を背負うことはない。よく出来たシステムだと思う。誰も傷つかない。

けれども、テレビや日常コミュニケーションの場というのは、相手が目に見える形で目の前にいる。その中で、特定の相手に向かって、特定の相手を貶める行為というのが日常的に行われているのだ。

特定の誰かを貶めるタイプの笑いは、一歩間違えばいじめにつながる。本当に、紙一重なのだ。「いじられるキャラはおいしい」という風潮があるけれど、それは結果論であったり、いじる側の正当化の言葉である向きは否めないわけで。これが相手の解釈行為である以上、いくら「相手のためを思ってやっているんです」と言ったり、「相手のことはリスペクトしています」と言ったところで、相手が嫌だと思ったらそれはその瞬間相手に対して単に負を与えているだけの行為になってしまう。言葉にだって、同じことがいえる。相手が奮起してよい結果が出れば、結果論で良い行為だったと捉えることも出来るけれど、単に相手を貶めて辱めているだけのように捉えられてしまう場合もある。ただ単に、相手に対する暴言が好意的に捉えているだけになってしまうことがある。それがその通りに行く場合と行かない場合があって、解釈行為である以上、そのことが常に付き纏うのだ。

その点で、こうした特定の相手との関係は、信頼関係の上に成り立っているといえるのだろうけれど。

信頼の上にある以上

個人的に、この違いには、敏感になっておきたい、と思っていて。

僕の中での誰かに接するときの基準としては、負の矛先が自分に向かうのは自分の中では許容されることだと思っている。自己嫌悪の正当化(笑)。僕はしばしば言葉にせよ、笑いにせよ、これらのことをすることがあるけれど、これは許容されるものだと認識したうえで行っている。他人に負を「押し付ける」行為ではないから。それが結果として相手に別の種類の負を与えてしまうことが多々あるし、そもそも自分に負が蓄積される行為であるのは事実なので、最近はしないように心掛けているけれど(笑)。けど、たまにしてしまうことがあっても、まぁそれはそれでいいか、と思うようにはしている。

また、落語のような、特定の誰かに向かってその負が収束していくわけではない類の行為も、同様に自分の中では許容しているのだとも思う。これも、特定の誰かを傷つけるような行為ではないわけだし。ここに書いているようなことって、多分そういうものだと思う。特定の誰かに向かって書いているわけではない、という自分の中での留保があるので。固有名詞も出さず、あくまで、発散していくだけ、ということを心掛けてはいる。それ以前に、負のことを書かないようにはしているけれどね。

そして。3つ目の、特定の他者に対して負を押し付ける行為に関して。これは、個人的には、自分は出来ればしたくない、と思ってはいるのだけれど、これが出来ているかどうか、正直、自信がない。というか、相当数、していると思う。それは、身の回りにこういうのが溢れているのもあるし、ある程度こういうのを要請する人もいるからなんだと思う。そして、それによって自分の中にプラスが生まれるのは事実だから、それをしてしまうのだろう。他人のせいにするわけではないけれど、自分自身、相当数、これらのことをしてしまっているのだと思う。

ある程度の部分までは、人は許してくれている。だから、良好な関係性を築けているのだと思う(少なくとも表面上は)。それが、信頼関係の上に成り立つということだ。けれども、その裏で密かに傷ついている人がいるかもしれないわけで、許してくれているからそれを続けていい、というタイプの議論ではないような気がする*2。だから、こういうところに敏感になって、常に自戒を重ねて気をつけるべきだと思う。信頼関係を履き違えてはいけない。ついつい調子に乗って、自分がこういうことをしがちな人間だからこそ。

「慣れ」

個人的に、小さい頃から「いいとも」を見ている子と見ていない子の間には、大きな差があると思っている。

別に「いいとも」じゃなくてもいいんだけど、「いいとも」には結構この類の笑いが飛び交っているような気がする。お笑い番組では「いじる―いじられる」関係が「笑い」という場の元で公然に行われているわけだけれど、そういう状態を見慣れている人にとってはそれが当たり前だと思うけれど、そうでない状態からいきなりこの関係に遭遇した場合、そこに「暴言」「暴力」に近いものを感じることがあるのだと思う。実際、僕が小学校の頃に、そういうことを思った記憶があって。多分、僕の記憶では、小学校4年くらいで「いじる―いじられる」関係に遭遇したような記憶がある。今でこそもう全然慣れて、そういう社会一般で共有されているような「笑い」についていけるようになっているけれど、当時は、それこそ鮮烈で、中々慣れなかったのを覚えている。

今でこそ、その状況に慣れているし、平気で「いいとも」も楽しんでいるけれど、そうでなかった状態もある、そうでない状態もあるのだ、ということを覚えておく必要があるのだと思う。

人間の適応力というのは凄いもので、最初は「こんなん出来るわけないし!!」とか思っていても、気づいたらそれが当たり前になっていることが多い。昔はなかったものが、今では当たり前になっていたりする*3。しかし、人間は慣れる能力を持っているがゆえに、慣れてしまうと昔のことを思い出せなくなる。違和感が麻痺してしまう。慣れた後の状態が悪い方向に向かっているのだとしたら、それは改善する必要がある。けれども、慣れてしまってそれが当たり前になってしまうと、自分が悪い状態にいることに気がつかなくなってしまうのだ。

そのようなときに、自分が慣れている世界だけではなくて、そうではない世界もあるのだ、ということを頭の片隅に置いておく事が重要なのだと思う。周りの人にいじられることを「おいしい」と思って、プラスに転換していける人はそれで良い*4。そういう人は強いし、そういう笑いの形態に慣れている。けれど、世の中には確実にそうではない人も存在し、そのような人には苦痛にしか感じない、ということも覚えておくべきなのだ。つい、調子に乗って、自分が慣れていることを当たり前のようにやってしまうけれど、当たり前のことが当たり前ではないことがある。そのことに対して、敏感になるべきなのだ。

自戒も含めて。

笑いに限らず、相手に対して投げかける言葉とか、特定の他者との関係性の中においては常にこのことが伴う。そして、今、周りがこうした「特定の誰かに負を一方的に投げつける行為」で溢れかえっている中、そうしたことに慣れきってしまっている自分がいるのだと思う。笑い以外の場面でも、こうしたことに気をつけなければならない部分はたくさんあるのだ。確実に改悪に向かっているけれど、その変化がごくごくわずかに変化しているがためにその変化に気づかず、無意識のうちにその状況に慣らされている、ということがあってはならない。また、当初は強い違和感を感じたけれど、それが制度として運用されていくうちに、気づいたらそれが当たり前になっている、というような事態にも気がつく必要がある。身の回りを見渡してみるだけでも、そうやって、おかしなことが当たり前になっていっている事態はどれだけあるのだろうか。それが当たり前になってしまっているから気がつかないけれど、私たちの気づかないところで負を背負ってしまっている人はきっとたくさんいるのだと思う。その違いに対して、「慣れる」のではなく、「違和感」を持ち、少しでもそれを自覚できるようになることを、心掛けておきたい。

*1:またこの話になるんだけどさ笑

*2:けれども、Mの人って、こうされるのが嬉しいのだろうか??それってS側の恣意的な判断である気がしてなんとも言えないのだけれど。

*3:携帯電話の普及然り、USBメモリの普及然り。これらのものは、昔はなかったのだ。

*4:他者から押し付けられる負に関しては、そういう風にして正に転換していくのが良い対応なんだと思う。