上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

自己嫌悪

久々にこの感覚を思い出したので、忘れないうちに、客観的に見れるうちに、文字にしてとどめておこう。

昔、自分自身のある特定の部分が、強烈に嫌いだったことがあった。それは、自分自身が改善しなければならないと思っていることや、自分自身に与えられた役割だと思っていることに対して、何かしらもっともらしい理由をつけて、「逃げている」ことである。議長の俺がやったほうがいいこと、主将の俺がやったほうがいいこと、その時その場にいた俺がやったほうがいいこと。やるべきこと。やらなければならないこと。そういったものを、適当に自分の中で理由をつけて、回避してしまうのだ。その理由は、面倒だったり、気分が乗らなかったり、といった、自分自身に起因するものが多い。そして、そこでつける理由は、その時置かれていた状況であったり、捻出すれば出来なくもない時間的制約であったり、そういった、外的要因だったのだ。今は予定が立て込んでるからこれをするのはやめておこう。この状況だと難しいからこれをするのはやめておこう。ちょっと今日は疲れているからやめておこう。本当は違う。全部、ひとえに自分の弱さのせいだ。それは妥協に過ぎず、やろうと思えばいくらでも出来ることなのである。けれど、適当な理由をつけて、何かしら逃げていた。だからこそ、自己嫌悪が募っていたのである。

そして、さらにその自己嫌悪を加速させたのは、自分がそれを知っていながら、知らないふり、見ないふりをして、結局やらなかったことだ。そういった、自分自身の、甘さ、狡さといったところに、自己嫌悪が募っていった。自分がずるをしていることを知っていながら、結局それをやらないというのは、文字通り、逃げに他ならない。知ってるならやれよ。そう思ったならやれよ。わかってるんならやれよ。何回、布団の中で自分に毒づいたことか。けれども、その言葉の向かう先にいる自分は、その言葉を聴いているのに、結局何もactionを起こさなかった。こちら側の自分はそんな自分に失望し、向こう側の自分は、こちら側の自分が失望しているのを知っていながらも、それでも行動を起こそうとしなかった。その2人のズレが、自己嫌悪を生み出していたのである。自分の狡さを許容できない自分と、それでも狡い行為をし続ける自分が。

人前で愚痴を吐かないように心掛けていたり、人前で人の批判をしないように心掛けていたのもこういった理由からだった。実際、それが果たせていたかどうかはわからないし、どうも色んなところで愚痴って弱さをさらけ出していた気もするけど、結局のところ、自分自身がベストを尽くしていないのに、それを人のせいにするのはもってのほかだから、である。ベストを尽くした上で色々言うのなら仕方がないけれど、自分自身のベストも出していないのに、外的要因のせいにしてあれこれ言うのは駄目な行為だと思っていた。

もっとも、それ自体が論理のすり替えであり、ベストを尽くせないから愚痴をこぼさない、という解決策は、それはそれで筋が通っているけれど、実は正論ではない。愚痴をこぼさなくて済むようにベストを尽くせ、というのが正論な解決方法なのだ。一応論理的に筋は通っていて、正論のように見えるけれど、実はそれは本質を覆い隠した巧みな言い訳なのであり、本当はもっとできることが存在しているのだ。けれども、その正論を行動に移さず、巧みに逃げているあたりが、まさに何かしらもっともらしい理由付けをしてベストを尽くせない自分を体現しているのであり(一応筋は通っているあたりがムカつく)、また自己嫌悪に陥るのである。こういうところが狡いのである。

そもそも、愚痴をいう、という行為は、自分が最大限努力しても成し得なかったことなどに対して、他人から自分自身のしたことを認めてもらい、理解されるという行為なのだと思う。そして、ベストを尽くさない状態で愚痴を言う、ということは、自分自身が至らなくても、他人に「それでもいいじゃん」って理解してもらい、承認してもらうことによって、自分自身が逃げるためにした正当化を補強する行為に過ぎないのだ。だから、愚痴を言った後に、ふと我に返ったとき、結局自分自身が逃げていることを目の当たりにし、そしてそれを他人にも承認させてしまったことに対して、物凄い後悔を覚える。結局「大丈夫だよー」って理解されてみたところで、それは至らない自分が理解されているだけの話であり、そんなんでいいのかよ、っていうところである。このあたりは若干ストイックに言いすぎてる感があるので、反論もあると思うけど。愚痴も大切だ、って意見も、わかるけれどね。

話が少し逸れた。そして、こういった「逃げ」が顕れる場として、肝心なところ、責任が要求されるような重大なところで出るのが、また自己嫌悪につながる。うわべだけは、色々なことが出来る。実際、あまり責任がなかったり、これなら自分でもやれる、と思った行動に関しては、積極的に加担していたりする。けれども、一番肝心なところで、こういう自分自身の甘さ、狡さが出るのだ。普段そこそこいい動きをするけれど、肝心なところで使えない人と、普段あまり使えないけれど、肝心なところで獅子奮迅の働きをする人だったら、絶対に後者のほうが良いと思う。そして、自分自身は、間違いなく前者だと思っていた。今でも、そう思っている。だからこそ、それを変えようとするべきであり、それをわかっていながら逃げてばっかりな自分が、吐き気がするほど嫌いだったのだ。



けれども、いつしか、気がついたときには、その自己嫌悪は姿を消していた。もしかしたら、自分自身に出来ることの幅が広がったのかもしれない。もしかしたら、色々な物事を前向きにうまくこなせるようになったのかもしれない。これらはこれで、多かれ少なかれ事実なのかもしれない。

けれども、うすうす感づいてはいたけど、やっぱり今日わかった。それは、責任のある仕事をしていないからであって、逃れようとする責任がないから、逃れることに対する自己嫌悪が発生していないのであった。おそらく、ここが一番大きい。結局、周りの状況が変わったから、自己嫌悪の発生しうる可能性が減っただけで、本質である自分自身は、何も変わっていないのだ。何も、は言いすぎかもしれないけれど、多分、ほとんど変わっていない。

そして、これまでにも何回か書いたけれど、多分、色々逃げることに対して、見て見ぬフリをすることがうまくなったのだと思う。逃げることに対して、許容してしまうことが多くなった。妥協を許してしまうことが多くなった。要するに、自分の中で、妥協に対して見方が甘くなったのである。この規制緩和のせいで(規制緩和のお陰で、と言うことも出来るのか)、自己嫌悪の回数が減ったのだろう。

けれど、これでは根本的な解決にはなっていない。自己嫌悪が減ったからといって、確かに精神衛生上は良いかもしれないけれど、実際自分から生み出される結果は、以前と全く質自体は変わらないものだ。むしろ、妥協レベルが下がった分、質の低下を招いている可能性が高い。そして、自分自身の反省にはつながっていない。反省が生まれないから、この先の向上も見込めない。これは由々しき事態だ。

後悔は必要ないが、反省は必要である。ポジティブシンキングは必要だけど、ポジティブすぎて能天気なのは良くない。たまにはこうやって我に返って、お前大丈夫かよ、って確認してみることが大事なのかもしれない。

もう同じことを繰り返したくないから今ここに書いたけれど、こうやって書いたって、どうせまたお前逃げるんだろ、って囁きがもう1人の自分から聞こえる。この文章が免罪符にならないことを願いたい。いや、願うんじゃない。免罪符には、させない、だろう??

ちなみに

この闘争の歴史は、昔書いたものの中にも散見される。

人に愚痴らないようにしてたっていうのはこのへん。けど、隠しきれてないみたいだ(笑)。それから、出来る風をうわべでは装ってるけど、実は本質ではやってない、っていうのはこのへん。どれだけ自己嫌悪してたふりをしてても結局最後で肯定して逃げる、っていうのはこのあたりか。妥協レベルが下がったことの自覚はこのあたりからあるのか。周りに責任転嫁してることも