上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

キレイゴト(続)

物語の世界が純粋すぎるのか、それとも現実世界の俺が単に真っ当でないだけなのか。

頭の中の理想と、現実との乖離は避けられない。現実は、妥協の連続だ。全ての物事が思うがままに進むことはほとんどない。だから、せめて、物語の世界の中だけでも、自分の思うがままに動こうとするのだ。だから、物語を読み終わった後は、自分にも、何かが出来るのではないか、という気になる。決して、そんなことはないのだけれど。漫画も同様。

それは物語を読んだ後だけではなく、日常生活の中から、脳内で、同様のことをしているのだと思う。イメージ。イメージの世界は、いつだって完璧だ。しかし、実際の世界はそうではない。だから、そうやって、理想と現実を巧みに噛み砕いて混ぜ合わせて、現実の中にも希望を交えながら、私たちは生きているのだ、と思う。可能性があるからこそ、そこに希望を見出せるからこそ、私たちは明日を生きていくのだ。それが叶うかどうかは別問題として。

全ての人が正方形のタイルのようならば、かちりと嵌りあって、完璧に整合性の取れた世界が完成する。しかし、現実には、正方形をしたイデア界のピースは存在しない。それこそパズルのピースのように、複雑な形をした無数の人たちによって、世界は構成されている。だから、それらが全て嵌りあうことは決してありえないのだ。物語が示しているのは、パズルの完成図である。部分的であれ、全体的であれ、ピースの形がしっかりと嵌りあった、完璧な調和を見せた世界。私たちは、完成図がそこにあるからこそ、パズルをはめようという試みを続ける。完成図が頭になかったら、パズルを完成しようという試みは挫折に終わる。そこに将来が描けるからこそ、私たちはピースを嵌めようとする試みを続けるのだと思う。現実には、ピースとピースが嵌りあうことは、とても難しいことのように思えるけれど。

果たして、物語の中のようなキレイゴトって、世の中にどのくらい存在しているのだろう。こうやって考えている俺自身が実は道を逸れているからそこに行き当たらないだけなのであって、真っ当な生活を送っていれば、キレイゴトにもっともっと遭遇するものなのだろうか。どうも、そんな気もする。多くの人に共有されている理想みたいなものがあって、それの表出が物語、漫画なのだとしたら、その理想を体現している人は、自然と物語内のキレイゴトに遭遇する機会が増えることだろう。ある程度定型化したピース同士ならば、そこに嵌るピースも見つかりやすい。それが真っ当に生きる、ということなのかもしれない。

現実には正解なんてないけど、実際には、正解に限りなく近い解というのはきっと存在しているんだよなぁ。それを読み取れるようになりたい。誰かの正答を。