上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

人のフリ見て

なんか、自分があんまり好きじゃない他人の行為を見ていて、それが自分の中にもあるな、って気づく瞬間があって、それがたまらなく嫌だ。

結局自分もやってるわけだから人のこと言えないし、嫌だなってわかってるはずなのにそれが直っていない、っていうことに気がついて、へこむ。「こういう人にはあんまりなりたくないな」っていうその「こういう人」にまさに自分がなっていることに気がついて。

これの最後のほうとか。これの2つ目とか。

なんか、自分があんまり好きじゃない他人の行為を見ていて、その人自身が嫌いになるわけではなくて*1。それは価値観の違いとかあるから多様性はあっていいものだと思う。僕があまり好きでないと感じるところを好きだと感じる人はいるのだと思うし、そういうのは単なる好みの問題だから、むしろ「合う合わない」というところで片付るべき問題だと思う。どちらかというと、「好き嫌い」という価値判断を挟むのではなく、「苦手」って感じるように処理している気がする。別に、自分の価値基準を人に押し付けるようなことはしないほうが良いのだと思う。直させるようなものではない。直してはいけない。

けれど、それが他人ではなく自分の場合になると話は別。他人に「こうなるべき」というのを押し付けるのは間違っていると自分では思っているのだけれど、自分に「こうなるべき」というのがある場合には、それを達成するよう努力するのは当然のことだと思う。そして、それを達成出来ていない自分は、「苦手」なんじゃなくて、「嫌い」なのだ。それは明確な価値判断が混じるところだと思う。他人なら許せるけれど、自分が同じことをしていては許せない。直さなきゃいけない。

人に価値観を押し付けることって、昔は結構やっていた気がする。けれど、それはやってはいけないことなんだと思う。あくまで、自分は自分、他人は他人なのだ。その辺に対して、「好き嫌い」を感じてしまうと、どうしても苛立ちを覚えたり、自分の価値観を押し付けて矯正しようという方向に行ってしまうけれど、「合う合わない」と思うようにすると、あまりそういうことはなく、寛容になれるのだと思う。そういう寛容さは大事ですね。

十七条憲法第十条(wikipediaより)。

十に曰く、 忿(こころのいかり)を絶ちて、瞋(おもてのいかり)を棄て、人の違うことを怒らざれ。 人皆心あり。心おのおのの執れることあり。かれ是とすれば、われ非とす。われ是とすれば、かれ非とす。 われ必ずしも聖にあらず。彼必ず愚かに非ず。共に是れ凡夫ならくのみ。是く非しき理、誰か能く定むべけん。 相共に賢く愚かなること、鐶の端無きが如し。是をもって、彼人瞋ると雖も、還りて我が失ちを恐れよ。 我独り得たりと雖も、衆に従いて同じく挙え。

大事なことですね。1400年前から同じようなことは言われていたのだ。

「頑張ろう、直さなきゃ」って思わせるような、プラスに働く自己嫌悪は良いのだと思う。へこませるだけへこまして終わってしまう自己嫌悪が一番たちが悪い。最近は後者がだいぶ減って、前者になってきたように思える。もしくは、単純に自己嫌悪しなくなったか(笑)。うまいこといなせるようにもなった、というか。見て見ぬフリがうまくなりましたね。

*1:とはいうものの僕もやっぱり人間だから、それもちょっとはあると思うけれど