わきまえる
ここ最近、「わきまえる」という言葉がホットな気がします。
わきまえる、という言葉を試しにググってみると、
- 身の程をわきまえる
- 礼儀をわきまえる
- 分をわきまえる
- TPOをわきまえる
- 場をわきまえる
- 時と場合をわきまえる
などと言った語が並んできます。
広辞苑によると、
物の道理を十分に知る。よく判断してふるまう。ものの区別を知る。弁別する。
といった定義が書かれています。要するに、言いたいことは、身の程にしろ、分にしろ、場にしろ、自分と自分の周りの状況を的確に判断してふるまえ、ということですね。おそらく。
僕自身が最近思うところの「わきまえる」には、上に挙げたグーグルの検索結果に出てきたような全ての用例が含まれている感じなのですが。なんで「わきまえる」に対してこんな過敏になっているかというと、「空気を読む」と言う言葉がこれに近い気がしているからなんだと思います。今年の冒頭でも「空気が読める人間になりたいです」みたいなことを書いて、今年ずっとそういう感じを気にしながら生きてきているのだけれど(果たしてそれが達成出来ているかは置いておいて。現時点では、達成出来ていない部分がどうにも多い気がしてならない)、「空気を読む」ためには、この「わきまえる」という能力がどうしても必要になると思うのです。自分の周りの状況、物の道理を十分に知っていないと適切な振る舞いといったものは出来ません。また、自分自身がどういう人かも十分に知っていないと、要請されるような適切な振る舞いといったものは出来ません。身の程をわきまえる。礼儀をわきまえる。分をわきまえる。TPOをわきまえる。裏を返してみると、まさにこれが出来ない人たちが「空気読めよ」って言われてしまうような気がします。そういう意味で、「空気が読める」人間になるためには、つまるところ、「わきまえられる」人間になればよいのだろう、と。
ということで、まずは、「物の道理を十分に知る・ものの区別を知る・弁別する」ことから空気が読める人間になるための一歩が始まるんだと思います。おそらく、失敗経験などを重ねながら、徐々に様々な物事の道理を身につけていく。状況に応じて、それらを適切に「弁別できる」ようになればよい。そして。それらの基盤を身につけたうえで、十分に「よく判断してふるまう」ことが出来るようになればよいのだと。この「よく判断して」というところが曲者で、それが難しいのだけれど。
まぁそんな感じで、「わきまえる」ことがホットなのだなぁ、と、思うに至りました。わきまえられる人間になります。