上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

公平性

公平性っていらないのかな。いらないのかもな。

しばしば僕は私生活においても公平性を気にする癖があって、多分それが、どうでもいいことを気にする一因になっているのだと思う。何か行為を行う際に、時折、何か周りの人全てに同様に接しなければならないような気がしてしまう。これまで僕が置かれてきた境遇がそうさせているのか、それともただの自分の性格がそうさせているのかはよくわからないけれど。だから、誰か1人にだけ何かをしたり、ということに、違和感を感じることがある。やるならみんなでやりたいと思う。いや、やるならみんなでやるべきだと思う、のほうが正しいかもしれない。そういう公平性の枠に捉われている。

カテゴリ内の平等

何か、カテゴリ別に分けたときには、同じカテゴリの人には一律に同様に接しなければならない、という考えが働いているように思える。

喩えるならば、「焼肉を食うのが好きな人」カテゴリがあるとして、その中の数人で焼肉を食いに行こう、っていう話になったときに、そのカテゴリの人全員でいくべきなんじゃないか、って考えてしまうということ。例えばその中の数人だけで焼肉を食いにいったとして、その連絡が行かなかった人たちが「焼肉を食いに行った」っていう情報を知ったときに、「え、俺、置いてかれた??」って思う人も、中にはいると思うのです。気にしない人ももちろんいると思うけれど。けど、そういうときに、少しでも気にする人がいたらかわいそうだなぁ、って思ってしまう、というか…。きっと、人間って、不公平な状況に置かれたら、何かしら不満を持つんだろうし。

焼肉を食いに行くときに、もちろん気の合う仲間同士で行きたい、っていう願望はあるわけですよね、きっと。その中に気の合わない人がいたときには、居心地も悪くなるだろうし、やっぱり気の合う人同士で行きたい、と思う。それは当然のことだと思います。あとは、そうやって誘い出すと、キリがなくなってしまうのもある。どこまで誘えばいいの、っていう感じになると思うし。けど、それにしても、やっぱり置いていかれた人がいたら可哀想だと思うんです。そう思ったときに、果たして個人の嗜好を取るのか、それとも公平性を取るのか、というところ。多分、普通は前者の判断をするんだろうな。何も考えずにそういう風に思う人もいると思うし、むしろそうするのが当たり前だ、と思っている人が多いでしょう。だって、たかが焼肉食いに行くだけでしょ。けど、何らかの形でおかしなことになって、権利を持つ人全てに平等に権利を与えようというような意識が入り込んできてしまうと、後者になってしまう。たかが焼肉、されど焼肉。

焼肉に限ったことじゃなくて、ホント色んなところでこういう問題って起こりえるんですよね。誰かと何かをしようとすると。何らかの形で連絡がいった上での断りとかがあって、了解が取れてるならば、全然いいんだけど。けど、「仲間はずれ」が生み出す憤懣って、結構大きいんだと思うよ。

適切な場で、適切な程度で。

多分、これは、時と場合に応じて使い分けるべきなんでしょう。おそらく、主将をやってきたから、っていうのも一因にはあると思うのだけれど…。サークルっていう母体で主将を務める、ということを考えたときには、どうしても公平性っていうのは必要だと思うし、私利私欲よりもまず全体のことを考えるべき、構成員1人1人のことを考えるべき、っていうのが頭にあったのだと思う。けど、それが僕の場合は若干おかしな形でそれが行われてて、バランスを崩しているところがあったのでしょう。公平性が必要とされる場では、公平性を重んじればよい。けど、ひとたびそういう場を離れて、プライベートな場になってしまえば、そういう公平性はある程度捨ててもいいのかもしれません。交友関係がある人全てに同様に接することって、そもそも不可能なんだと思うし。

もちろん、プライベートな場においても、万事が万事こういうわけではない。そんなことばっかり考えてたら、何も出来なくなってしまう。けれども、他の人に比べて、こういう傾向が強いところは事実なんだと思う。これって、おかしいのかなぁ??いや、きっと、おかしいんだと思う。過剰なんでしょう。こういう考え方ってどっかおかしいんじゃないか、普通じゃないんじゃないか、とは自分でも思っていて。何か誘われたりしたときに、公平性の部分でちょっと引っ掛かることがあっても、やっぱりそれは自分が間違っているんだろうな、と思って、頭の中で打ち消すことがよくあります。真っ当なのはあっちなんだろうな、と思って。それでも、まだ多いのだけれど。そうやって自分1人で勝手に公平性を気にして、結局何もしないで終わる、ということも多いし、結局1人でやっちゃう、ってことも多いし。こんな公平性なんて気にしなければ、もっともっと、色んなことができるはず、できたはず、なのにね。。。

あと、こんなこと言っていながら、自分自身、依然として不公平な部分を多く抱えている人間であるのは重々承知していて、結構不公平な行為をとっていると思います。公平性が必要とされる場では、確実にそれをできるようになりたい。適切な場で確実に適切な行為を取れるように、これからも改善していかねばならない。要するに、メリハリが大事なんだろうな。多分、気になるのは八方美人だからなんだと思うし…。きまぐれなんだよね、きっと。自分が気になるところに関してはこういう風に公平性が気になるけれど、きっと気になっていないところでは全く何も考えていないんだと思うし…。中途半端。やるときはやる、やらないときはやらない。その境界をはっきりとさせれば解決されるのかもしれないね。

こういうところが背景になっているのが、たぶん3週間くらい前にした、「補正」の話なんですよね。自分自身が持つ好き嫌いっていうのは否定できなくって、けれども公平性が気になるから、それをなんとか「補正」しようとして、変なことになってしまう。という感じ。「公平性」と「個人的好み」を天秤にかけたときに、多くの場合において、「公平性」をとってしまう。あー、でも、考え出すとキリないんだよな。結局正解なんてないし、相対的なもんだし。相手がどう思うかに拠ってるし。そんなんわかんないし。めんどくせえ。捨てちゃおうかな、公平性。なんか、気にしてても、あんま自分にとって良いことないし…*1

*1:とか言いながら、そこにほんの少しだけある「効果」も自分でわかってるから、結局捨てられないのは目に見えているんですけど。