上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

主観の「排除」

「完全に公平な評価」って難しい。

例えば何か提言がなされたときに、自分の好き嫌いを混ぜた評価をすると、それは不公平な評価になる。提言を述べた人にしろ提言の内容にしろ、どれだけ好き嫌いがない人でも、大抵自分の好き嫌いというのはあるのではないか。お気に入りの意見は採り入れたくなるし、自分の嫌いな意見は排除したくなる動きが、多かれ少なかれ自分の中に起こることがある。

公平性の高い(と思われる)人っていうのは、それを何らかの方法で打ち消すことが出来ているのだろう。

個人的に思うのだけれど、それを排除するために、補正の概念を用いてはならないと思う。補正というのは、デジカメの手ブレ補正とかヘッドホンのノイズキャンセリング機能なんかを思い浮かべてもらえれば良い。要するに、「好き」に付加されたプラスの部分を削り、「嫌い」に付加されたマイナスの部分を底上げすること。思うに、これを意識的に行おうとすると、余計正常な判断ができなくなる。どの程度採り入れたら良いのかわからなくなり、つい過剰な反応をしてしまうことがある。好きだからこそかえって採り入れなかったり、嫌いだからこそ逆に過剰に採り入れてしまったり。そのレベルに迷って、必要以上の過敏な反応を示してしまうことになる。

そういう好き嫌いも含めた主観は「補正」するのではなく、「排除」せねばならない。好き嫌いという主観的な要素は一切見ないことにし、事実だけを冷静に捉える。この「事実だけを捉える」っていうのは、すげー重要なことだと思うんだけど、すげー難しいことでもあると思う。感情とかを挟み込まないで、あくまで事実、利害だけを冷静に見つめること。そういうことが必要とされる状況っていうのは、確かにあると思う。これを、的確に行えるようになりたいなとは思うんだけどな…。なかなかどうして難しい。

勿論、この能力が必要とされるのは、状況による。感情こそ大切なときもある。その辺は状況に応じて的確な判断が出来れば良いけれど。こちらも難しいものですね。