上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

他人の視点

相手の立場に立って物事を考えること、というのはとても難しいことである。

独善

誰かに善をするということは、ごくごくシンプルに考えると、相手が何がして欲しいかを考えて、そのことをしてあげることである。けれども、その際、それが本当に相手が望んでいることなのだろうか、という視点が、非常に重要である。それを考えずに、ただ「相手はこれをして欲しいのだろう」と自分が思うことのみによって何かをするのであれば、それはただの独善である。本当に相手が望んでいることをしてあげられなければ意味がない。

「おせっかい」と「親切」の違いも、つまるところはここなんだよな。「おせっかい」な人は、相手がしてほしいと思っていることを、自分自身の視点からでしか見ていない。相手の視点に立って見ていない。一方、「親切」な人は、相手がして欲しいと思っていることを、相手の視点に立って考えているのだと思う。うまく説明出来てないかもだけど。

僕自身、この「独善」に近い視点に陥りがちであることはこれまでも自覚していて、試しに「独善」でこのブログに検索をかけてみたら、何度かそのことについて触れていた(実際にかけてもったほうがハイライトされるからわかりやすいと思うけど、これとかこれとかこれとかこれとか)。年末の総括的な記事だとか、年始の目標的な記事に見えているあたり、おそらく意識の中に根深く張った問題なのかもしれない。しかし、自覚しているつもりであっても、相手の立場に立って考えていたつもりであっても、やはり、結局それは相手の気持ちを考えるという形を取っただけの自分の視点であり、自分の気持ちを相手に移植して考えていただけなのだ、と思う。相手と自分では考え方は異なる。それは理解していたつもりであるけれども、結局は、相手の多様性を認めたとはいえ、それは自分の視点から見た相手の多様性なのであり、立ち位置はあくまで自分なのである。その点で、結局自分の枠を抜け出せていない。

これまで&今

まぁ、今更こんなこと言ってるのかよ、という感じではあるけれど。そういう形で僕はこれまでを過ごしてきた。そして、今もおそらく、そういう部分が多いのだと思う。自覚的になったつもりでありながら、それでも結局自分の視点から逃れえていない。考えたようでいながら、それは実は独りよがりな立ち位置から考えていただけのことであり、それでは、全く何も考えていないのと同じだ。今まで、そのような視点からしてきたことが、結果的にそれが相手の望んでいることだったこともあるけれど、そうでないときも多かった。その結果として色々な結末があり、そして今に至っているのだろうけれども。

もちろん、これも程度の問題だとは思う。相手の立場に立って考える、というのは、突き詰めて考えていくとそれは不可能なことであると思うし、実際にどの程度可能なのかどうかわからない。けれども、「他人視点に立って考えている」と考えている今の自分が立っているのは、結局自分ベースの視点であり、だから独善になってしまうのだろう。

これから

今まで独善について何度も触れてきた(これとかこれとか。特に前者は独善的な立ち位置から書いてしまっていると思う笑)。けれども、その時に立っていた立ち位置は、結局自分ベースだったのだと思う。そして、それを修正していくためには、少しでも多様な価値観に触れなければならない。そして、自分の独りよがりな視点と相手の視点が違うことを自覚する手段は、失敗しかないと個人的には思う。だから、多くの失敗を積み重ねることが大切なのだと思う。多分、これからも、このようなことを意識しながら、改善を重ねていくしかないのかな、と思う。