上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

再現性

最近の生活では「再現性」という言葉を耳にする機会が多いけれど…。

例えば誰かに善行をしたとする。ただ、それがふとした思いつきでやっただけのものでは、再現性はない。同じ状況がもう一度訪れたときに、同じことを出来なければそれは自らの能力として語ることは出来ないのだと思う。そして、自分がそういう再現性のある能力をどれだけ持っているのか、自分自身に問いかけてみると、自信をもって頷けることというのは意外と少ないのではないだろうか。

再現性のある能力??

例えば、誰かに席を譲ったとする。それが善行かどうか、というのはまた別の問題で、ただの自己満足なんじゃないかっていう疑問なところもあるけれど、まぁ善行ということにしておこう。それが、ただ1回気まぐれでやっただけでは、それは別にただの思いつきなのであって、別に誇るべきことでもなんでもないような気がする。それが自然に出来るように、無意識に出来るようになってこそ、それは能力(?)として身についたものなのであり、自分自身の能力として認めても良いものなのだと思う。そして、それが、その人自身の人間性として認知されるところにもなる(おそらく)。

あるいは、スポーツだってそうだ。仮にソフバの話をするけれど、奥フェイントが1本綺麗に決まったとしても、それが偶然出来たものでは意味がない。10本やって10本決まるくらいになって、せめて7本8本でもいいと思うけれど、とにかくそれくらいの再現性があって初めて、それは自分のものになったと言えるのだろう。それを、1本決まったからといって、それを自分が身につけることができたと錯覚するのは間違いである。その時点で、歩みが止まる。

危機に直面したときに発揮される「真価」

個人的に、こういう能力というのは、危機に直面したときに一番その真価が問われるのではないかと思っている。危機に面したとき、咄嗟の判断で為すことというのは、本能に負うところが大きい。本能に拠ったその行為というのが、まさにその再現性のある行為に近いものなのではないかと思う。ちょっとした思い付きでできること、あるいは、少し考えれば出来ること、というのは身の回りに結構あるけれども、危機に直面し、咄嗟の判断で何が出来るか、というと、結局こうした本当に身についていることしか出来ないのではないか。そして、それが、再現性のある能力、ということなのだろう。こういうときに何が出来るかは、いくら普段からシミュレートしておいても、どうなるものでもない。

そういう意味では、自分自身の中で、自信をもって「再現性のある能力です」って言えることというのは、本当に少ないことであるように思える。少なくとも、今自分の中で、真の意味で自信を持ってそう言える能力は、ほとんどない、のだと思う。そう錯覚している事柄だとか、ある程度なら言えるけれど、という事柄は、意外と多いのかもしれないけれど。

だから、危機に直面したときに自分がどういう行動を取るか、正直怖い。もしかしたら、逃げてしまうかもしれない。逃げないという自信や保証は、今の自分には、まだ、ない。多分。逃げない「べき」だとは思っているし、逃げないつもりだけれど、実際にその場面に直面したときに、どうなるか。果たしてそこで咄嗟に出すことが出来るだけの能力が、身についているのか、そのときになってみないと、わからない。。。だから、「一大事に逃げてしまうこと」への恐怖が、常に頭のどこかにあるのではないだろうか。自分自身への弱さに対する恐怖が。

能力を身につけるために

だからこそ、日ごろから、再現性のある能力を身につけるべく努力する必要があるのだと思う。

ふとした思い付きで為したことと、自分自身の持っている能力とを混同してはならない。それを混同してしまったときには、成長が止まってしまったりとか、あるいは、自分の能力以上のことをやって失敗してしまうことになる。正確な自己認識が必要なのだ。自分に出来ること、出来ないことを、明確に切り分けること。ある結果に対して、自分の能力で為されたものなのか、それとも単なる偶然によって為されたものなのか、それを明確に切り分けること。そこを正確に把握することが、次への一歩につながる。

そして、こういう再現性のある能力を身につけるためには、結局、これを踏まえたうえで、日ごろから意識して何かをする体験を積み重ねて、無意識の領域に持っていくしかないのではないだろうか。昔したことがあるけれど、変化の三段階説とか、赤いボールを使った喩えの話とつながってくるのではないだろうかと思うけれど。