上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

批判

僕は無責任な批判があまり好きになれない。ただ自分の主観だけに基づいて、自分の意見にそぐわないものを勝手に決め付けて批判している姿を見ると、嫌悪感を覚えるのである。褒めるのは一向に構わないと思うが、けなすのはどことなく居心地が悪い。

「面白い」とか「良い」とかって、個々人によって異なるものだと思う。倫理観だって、個人によってブレは大きいと思っている。だから、「私はそういうの好きじゃないなー」とか、「私の趣向からは外れているかもしれない」っていう言い方は、全然良いのだと思う。そういうのは、世の中に多様性があることを受け入れて、自分自身の立場を表明している行為なのだろうから。けれど、自分の意見がさも世の中における絶対的な定理であるかのように、「〜〜って全然ダメだよね」とか、「〜〜マジ終わってる」とか、自らの主観のみに拠って即座に言い放つのは、自分の意見=常に正しい、みたいな感じに感じられるから、苦手なのかもしれない*1。多少なりとも、あくまでも自分個人の意見である、と自覚していることが感じられ、それが間違っているかもしれない、という可能性を認識している雰囲気が感じられる場合には、大丈夫なのだと思う。けれど、自分の好き嫌いだけで、それを全ての人が受け入れるかのように軽々しく他のものを批判し続けるというのは、あまり好きになれない。多分、それが1回とか、たまに、とかだったら許せる。けれど、日常的にそういうことをしている人は、少なくとも僕は、あまり好きになれない。批判って、そんなに簡単にしていいものなのか。批判をするときは、批判をされる側に対しての責任も負うべきである。そして、それが間違いうる危険はどこにでもある。だから、そう軽々しく批判なんて出来ないんじゃないか、と。

けれども、問題なのは、自分だって、こういう批判を無意識のうちに行っていることがある、ということだ。いや、無意識ではない。自分がそういう批判が嫌いであることを自覚しながらも、やってしまっているのである。個人的な主観からの軽薄な批判を。多分、このブログを見返していけば、そういう批判的なものはボロボロ出てくるんだと思う。ろくに考えもせずに他人に対して放った批判が。というか、こうやって言っていること自体、それにあたるのかもしれない。

そこで、自己嫌悪が生じることになる。軽々しく批判を繰り返している他人に対して嫌悪感を感じた瞬間、それと同様の嫌悪が自分にも向くのである。目の前で自分の嫌いな行為をしている他人に対して嫌悪感が生じると同時に、自分に対してその行為をお前もやっているじゃないか、という同等の嫌悪が向かうのである。人のこと言えないじゃないか、と。昔も同じようなことを書いたけれど。

人のふり見て我がふり直せ。まさにこのことだと思う。自らの欠点に気がつき、それを確実に修正できる人間になりたいものである。

*1:だから、僕の文章にはこういった形で付け足し的に譲歩がくっつくことが多いのかもしれないけれど。