上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

真っ当コンプレックス

数日前に書くべきか書かぬべきか迷ってお蔵入りしていたのだけれど。結局書いてしまえ。

アイツは物凄く頭の切れるやつだけど遅刻する、とか、アイツはスゲー優しいやつだけどセンスがない、とか、多分全ての人には何らかの欠点なり弱点なりは有ると思うのですよね*1。無くて七癖。ちょっと違うけど。

でも私たちが人々を見るときに、「総体的に見て」、「真っ当な」人と、どこか軸がズレてて「真っ当じゃない」人がいると思うのですよ。何をもって真っ当か真っ当じゃないかの判断をしているかは定かでは無いけれど、そういうものがあるのだと感じてしまう。それは人によって評価軸というのは違っていて当然だとは思うし、多分違うのだろうけれど、ただそこにも、それらの人の判断の全てを「総体的に見て」、「真っ当な」判断と「真っ当でない」判断があるのだと僕は思っている。多分世論がそれに近いのかもしれないけれど、何か自分の中でその区別というものが非常に引っ掛かってくる。

そして僕は自分のことを、間違いなく後者(所謂「真っ当じゃない」人。)だと思っていて、常に、前者に対するコンプレックスを抱いて生きている、のだと思う。もちろんそう判断する基準なんて分からないかもしれないし、本当にこれはただの僕の勝手な思い込みなのかもしれないけれど、多分、僕はいつも真っ当な人々に対して劣等感を感じてしまう。しばしば自分を肯定しようと試みるときに、いつも何処かでふっと疑念が沸き起こってしまうことがあるのだけれど、それは恐らくこのせいであろう。本当にお前はこれで良いのか、って思うときに、いつもそれを否定する要素として働きかけてくるのは、この「真っ当コンプレックス」なのだ。おそらく。確かに自分について探したら、何かしらの良いことは出てくるのかもしれない。けれど、総体として真っ当じゃないのだったらそれは意味がなくって、むしろそんなことを認めて自己満足に浸っているんじゃなくって、ちゃんとした真っ当な人間になれよ、と思う。

もしかしたらこれはこれで自分を変える原動力になっているのかもしれないけれど、そう思ったからといって必ずしも何かするわけでもないし、どこをどう直したら良いものかわからないから、いつまで経ってもそのコンプレックスは解消されないのかもしれない。何をもって真っ当とするかも違う訳だし、本当はこんなこと考えるのは意味のないことだとは思うんだけど。おそらく、真っ当か真っ当ではないかという判断自体、僕の頭の中で相当曖昧なものであり、流動的なものなのだと思う。言語化して説明してみろ、といわれても、多分自分自身の長所や短所が端的にすんなり出てきてくれないのと同様に、これも多分そうあっさりとは出てこない。ぼんやりとしていてもしかしたら実体を持っていないイメージなのだ。だから、本当はこんなことを考えること自体が無駄なことなのだとは思う。けれども、自分自身でそう思っていても時折ふっと沸き起こるあたり、多分相当深いところにコイツはいるのかもしれないなぁ、と思ってはいる。

真っ当に生きたいのだけれどなぁ…(笑)。

*1:中にはそれが限りなく少ない人はいるのかもしれないけれど。