上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

1ピース

色んなテキストを詰め込んだフォルダをたまたま穿り返していたら、去年の今頃書いたこんな文章が出てきた。

色々渦巻いているには渦巻いているんだが、処理する間もなく日々が過ぎ去ってもう10月も半ばを過ぎた。定常化まではもうしばらく時間が必要なようだ。ある程度勝手が掴めればもう少し余裕やら展望やら出てくるのだろう。今はただ、ひたすら時が過ぎ去るのを待つしかあるまい。目の前の1日1日に対処しながら。得てして周囲の環境の変わり目というものは不安定になりがちなものであり、特に大きな変化の場合にはそれが顕著になる。そのときに自らのなかに据えている柱がなければ振れ幅は大きなものとなることは容易に推測され、そしてそれは私のような人間の場合に顕著に現れていると思われる。孤独感、焦燥感といった形で入れ替わり立ち代わりそれは姿を私の前に現す。活動の根源となっているのがいったいなんであるかも掴みきれていない人間にとっては自我というのはたなびく霞のようなものであり、確固たる形を持った実体は全く見えてこない。状況に応じて如何様にも形を変えうるものとしてしか認識されていない。本当は形などないのかも知れないと思いつつも、あたかも形が存在するかのような巷に溢れている言説に惑わされ、真実という影に怯えながら今日も私は首を傾げながら歩み続ける。しかしながら、立ち止まっている場合ではない。疑いながらも歩み続ければ、その先には何かが見えるかもしれないのだ。確固とした形を持つ何かが。それまでは己の中に巣食う茫洋たる疑念に捉われてはならない。誤魔化しながらでも、押し込めながらでも先に進まねばなるまい。果たして然るべき後に後ろを振り返ってみて初めて見えるものというのは多いのだから。

確か、漢語なんかを使いながら、ちょっと古臭い文章を書いてみよう、ということで書いてみたものだった気がする。小説家の文章なんかを頭に浮かべながら。ちょっとした文章の遊びだとか、トレーニング的なもの。でも結局、内容的にちょっとこういうのを載せるのはどうかと思って、載せないという判断を下し、テキストファイルにしてフォルダに保存、そのままお蔵入りになった文章だった。思ったことを全て口に出したり、書き出したりするわけではないので、僕のPCにはこういう中途半端なテキストファイルが投げ込まれているフォルダが存在する。書きかけのバトンなんかもそこに放り込んでおくことにしている。

どうせトレーニングするなら、こういう文章を書けなくても良いから、もっとわかりやすくて的確な文章を書くためのトレーニングを積めというのだよ、君(笑)。

僕はこのような文章は嫌いではない。雰囲気的には。けれども、自分で書いたものとして、やっぱり何が言いたいのかわかりづらい(笑)。文体だけ使えるようになっても駄目だ。そのような文体を使えるとして、そこに用いられている語できっちりと何が言いたいのかが万人に伝わるような文章を書けることが、小説家と一般人の違いなのだと思う。そういう意味で、僕は小説家になれるとも思っていないし、またなろうとも思わない。自己満足で適当に文章をこねくり回しているだけで十分なのですよ。きっちりした文章を書こうと思ったら、時間も体力も気力も使いますしね。