上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

安定不安定に関する一次的見解

まずは私自身の現状での簡単な定義

安定不安定というのは、割と長期的なスパンから短期的なものにまで渡るものだという認識をしています。

その上で、一例を挙げると、「物の価値」に関して、肯定的に捉えられるときと否定的に捉えられる時があるわけです。僕個人としては、これを「肯定的に捉えられるときと否定的に捉えてしまう時」があるわけだと解釈して、後者は良くないものである、としてこれを排除したいのです。

しかしながら、必ずしも後者が間違っている、と言い切れるわけでもないのが難しいところです。ニヒリズム、という言葉をこの例に当てはまめるのは少々強引が過ぎるかもしれませんが、似通った点はあると思います。肯定的に捉えられるときには「物の価値」に関してその存在を信じることが出来ますが、そこにはイマイチその根拠がありません。ただなんとなく、とか、自分の信条で、とかそういった部分になってしまいます。「信じる」という行為に対して、何がそれをそう信じさせるのでしょうか??この部分に対して一旦懐疑を抱いてしまうと、そう簡単にはこの問題を克服することは出来ないように思われます。そういった曖昧さに拘泥して、一旦「物の価値」に対して否定的になってしまうと、「そんなものはない、だって根拠は無いだろう??」という方向へと思考が向かってしまうわけです。あらゆる局面で。そして、残念ながら、「物の価値」に対して否定的な見方をすることに対する決定的な反論も、同様にして見出すことが出来ない。現状では。

一旦「物の価値」を否定的に見るような状況に陥ってしまうと、割と生活における全ての面において「悪影響が発生します」。ここでカッコの中に入れたのも、必ずしもそれが悪いとは言い切ることが出来ないからです。僕自身はこれを悪影響と捉えてそれを排除したいのですが、それを信じることが出来ない、というところにまた地雷原を抱えることになります。一旦「物の価値」を否定してしまうと、それが良くない、という認識でさえも否定してしまったりとか、そこから脱却しようという試みでさえも、無駄であるとか無意味であるとかそういう思考に流れてしまうのです。

そんなわけで、どのようにしたら、そういう状況に陥らずに済むか、「物の価値」に対する2通りの考え方の間でどれだけ揺れ動くことなく済むか。また、どのようにしたら、排除したいと思っている否定的な側からの脱却を果たせるのか。今は割と肯定的に捉える側にいるので良いのですが、いつまた否定的な側に落ち込むかわからない。そうしたら、またそこから脱することが出来ずに苦しんでしまう。そのため、今こうして割と余裕のあるときに、それを考えているのです。僕の言っている、「安定したい」ということの一例は、このことにあります。これはあくまで一例ですけれども。

これは短いスパンの話にも適用できます。2時間とかいう時間の中で、これらの価値観の反転が起こりえます。そういう状況では、自分の中に一貫性を見出すことが出来ないため、こういう状況を「不安定」と呼びたいのです。

現状で挙げられている回答

そのうえで、

  1. 演技力を鍛える
  2. 余裕をなくさないようなスケジューリングとか計画性とか
  3. 不安定要素から遠ざかる
  4. 不安定要素から安定化要素に転換する
  5. 自分を安定化させる要素を近くに置いておく
  6. 安定な人格を持つ人の思考パターンを学習する
  7. 不安定なままどこまでいけるか

という回答が今までに得られているわけです。

  • 1はここでは個人内面の問題であるので除外したいと思います。
  • 2は一般的に考えて、妥当な案であると私は考えます。やはり自分自身に余裕のないとき、物事を否定的に捉える方向に陥りやすいですから、そういう状況を避けられるならば、避けるのが一番良い道であるように思われます。
  • 3も、同じようなことであると言えます。
  • 4の選択肢は、3を試みた上でも避けられない事態に対して有効な手段であると言えます。自分に対してストレスに感じることを、うまく発想を転換してストレスでなくしてしまう。そういう方法であると言えるでしょう。中には相当な困難も含まれることがあるかと思いますが、これを達成できれば不安定要素も怖くなくなります。
  • 5の選択肢も、3を試みた上でも避けられない事態に対して有効な手段であると言えるでしょう。依存している、とはいえ、依存よりも安定を優先させたいのならば、それはそれで活用することは問題ないと思います。社会的に違法であるものや中毒性のあるものに関しては必ずしもオススメできませんが。
  • 6は、それらを踏まえた上で、そのような事柄について上手に処理している人はどのように処理しているのかについてのケーススタディ、ということになるのでしょうか。
  • 7は一見斬新な考えですが、価値観が定まらない以上、多かれ少なかれこのような結果になるのだと思います。しかしながら、自分としては、不安定な状況に対して、「これは良くないものである」というレッテルを貼り、排除したいがために、この状況はミテミヌフリをしたいところなのです。

加えて私自身の意見

一番最初の定義に基づいて、今までに自分がしてきた経験を多少加味します。

  • 認知神経系のアプローチは1つ考えられます。知識を増やすことは出来ますが、事態を把握するだけで、根本的な解決にはつながりません。「科学の力」を借りてやるならばこの方法が一番良いのかもしれませんが、それは病気を病気と線引きし、薬物の力による解決へと最終的につながっていくため、あまり僕の志向する方向と合致するものではありません。薬物療法のほかにも、認知療法というアプローチの仕方もありますが、これに関してはそれなりの知識をつけた上でやったならば、多少は効果はありそうです。ただし、これは重度の人に向けた治療法であり、また、これも病気を病気と線引きした上でのものであるため、僕の志向する方向とは少しずれている気がします。必ずしも今陥っている状況は病気とはいえないのではないか。いや、病気と認めたくないだけかもしれませんが。
  • さらには、思考方法を変えるというアプローチがあります。哲学書を読んでみるとかそういった類の話になります。これに関しては現在進行中ですが、難解な上に、やはり価値観と言った問題には個々の哲学者それぞれの考え方があるように、絶対的な答えというものは存在していないように思うので、ここでも完全なる安定には向かえないような気がしています。ただ、やはりそれなりに評価や名声を得ている先人が言ったことの中には、読んでいてなるほどと納得できる内容も含まれているので、そのような知見の中で自分の思考に合致したものを取り入れ、自分の中に積み重ねていくことによって、少しでも安定化の助けに出来るのではないか、という希望はあります。

ただ、このようなアプローチ全体に対しても、その価値を否定する状況に陥ってしまったら、どうしようもないのですが…。そうなってしまう前に、何とか基礎となる部分を固めておきたいものです。

以上、簡単ではありますが現状報告。

書いてみて改めて思ったことは、やはり、情報量的には

考える>>話す>>書く

という壁を越えられないようです。疲れた。さらに、不足分やまとまっていない箇所もあると思います。それに関しては、今後頭の中で整理していきたいところです。