上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

過去

過去は振り返るためにある、のか。

過去は変えることはできない。いくらそれが現実に多大な影響を及ぼしていようとも、それを遡って改変することは許されない。しばしば、過去に縛られることがある。過去から伸びた鎖が足枷となって、行動範囲を狭めることがしょっちゅうある。本当に、しばしば。けれども、過去は未来に活かしていかなければならないのだと思う。それを事実として、受け入れながら。良い過去もある。悪い過去もある。けれども、栄光に浸っているだけでは先は見えないし、過ちに縛られていても先に進むことが出来ない。過去に捉われすぎてはならない。それをしっかりと今の視点に捉えなおし、向き合って、乗り越えていかねばならないものなのだと思う。過去の自分がしたことなのだから、嫌であっても、自分自身が引き受けてやらねばならない。どうこう理由をつけるのは勝手だし、その影に怯えるのも勝手だけれど、それは自分の後ろにいつでもついているものと思わなければならない。その事実からは逃れることが出来ない。その上で、言い訳が出来ないレベルに、その過去を踏みつけてその上に立つべきなのかもしれない。

そして、今こうして一瞬一瞬過ごしている時も、過去として自分の後ろに打ち捨てられていく。これから先に起こることも、過去になる。1つ1つの決断も、自分を縛り付ける鎖にもなるかもしれないし、後々に渡って振り返ることとなる英断となるのかもしれない。けれども、それは今の自分にはわからない。今が過去になってみないとわからないことはたくさんある。将来どうなっていくかなんて、予想、推測こそすることは出来ても、現実を知ることは出来ないのだと思う。そのように僕は考えてしまいがちだ。ある人にとっては、現実を自分の思い通りに動かしていくのは自分の意思が行うことなのかもしれない。それは当たり前のことなのかもしれない。しかし、個人によって「自分の意思でしたこと」と「天命によって決まっていたこと」の捉え方のバランスが異なるのだと思う。昔そのような話を読んだことがあるような気がする。うろ覚えだけれど。

いつもながら、書いているうちに何が言いたいのかわからなくなってきた(笑)。複数の事柄を混ぜ込んでしまうからいけないんだよな。わかってはいるんだけど。。

でも今日授業で「読売年鑑*1」のコピーを配られて、それを見ていて思ったのだけれど、10年前とか、ホントに10年前かよっていうくらい新しく感じるんですよね。1996年。O157。ペルーの日本公邸占拠事件。ホントに10年前のことだったんですか。もう10年経ったの…??って。でも、もう20世紀は確実に遠い過去のことになりつつある気がする。そんな感じに自分の中では捉えられる。それも確か。ケータイがこれほどまでに普及する前の世界。社会現象に対してやっと理解し始めた10歳くらいの頃から、もう10年が経つ。one decadeが終わった感は結構している。そう考えると、10年って早い。モノの捉え方とかも、社会にあわせて随分変わっているのだろうな。。。何が変わって何が変わってないのか、それすら良くわからなくなってきた。

多分、どうでもいいことなんだろうけれど。

*1:その年に起こった社会現象などがダイジェスト的に書いてあるやつ。流行語とかも載っている。