上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

不定

時々自分自身の変われていない面に落胆することがあって「そう簡単には変われないものだな」って思うのだけれど、時々別の部分における昔の自分との変わりようを見て「変わらないものなどは無いのだな」って思ったりもする。

要するに一貫性の問題なんだろうけれど、どちらに感情的に重きをおくかに因るんだろうな、結局。その辺の感情のブレに苛立ちを覚えたりもするのだけれど。identityやら自己同一性とやら巷では呼ばれているような部類のものなのかもしれないけれど。問題なのは自分の中でその時々で視点が変わってしまうことであって、あるときには楽観的に見れる事柄もあるときには悲観的に見てしまうことである。自分の中にあるモデルとしては、あるひとつのX軸があったとして、その上のプラスの部分にあるときは楽観的、マイナスの部分にあるときには悲観的な見方となる。どちらかにいることが出来ればそれは一貫性を持つと言うことになるのだろうけれど、問題は周囲の環境やらそのときの気分やらによってその位置がX軸を超えてプラスとマイナスの間を行ったり来たりすることにあるのだと思う。波のように。staticなものとしてどちらかに一貫できる、っていうのは言い過ぎた幻想なのかもしれないけれど、そこの間のブレ幅を小さなものにしていく少しでもそれに近づくことが安定へとつながるのではないかという気がしているのです。これってやっぱ幻想なのかなぁ。不可能なことを標榜しているのかしら。

文化にauthenticなものを見出そうとしてしまう見方というのも、同じようなことなのかもしれない。「本物性」。本当は本物っていうのはないのかもしれない。けれど、なんとなくそれを信じてしまったほうが色々な物事は楽に片付く気がする。一方向からの視点に固定してしまえばそれはそれで楽なんだろうけれど。二項対立における優位性。やっぱり二項対立的なものの見方っていうのは結構扱いやすいものであって、どうしても頼りたくなってしまうし、無意識のうちに使ってしまう観点ではある。そして、無意識のうちに優劣をつけ、片方を排除しようとしている。グローバル化していく社会の中でそんなことはどこかへと消え去ってしまうのだろうか??実際deconstructionによって否定もされているのだけれど。deconstructionって結構厄介だと思う。なんとなく、本当にいろいろなものの見方を「解体」だけして去っていって、代わりの拠り所となるものを何も提示しないまま取り残されて置いてけぼりをくらったような感じがする。これも無勉強な人間の戯言なんだろうけれど。もっと詳しく知ろうとすれば乗り越えられるものなのかな。

けれどもやっぱり、多面的な視点にはどこかしら共感を覚えつつ、どこかしらで一元的なモノの見方に頼ってしまう面が捨てきれない。両者の間でさまよっていて、どちらかに固定化できない。混交している。こうして混交していること自体がまた問題を引き起こしているんだろうけれども。あー、一貫性がないなぁ。グレーゾーンが嫌いだ。

参考:6月26日の一貫性の考え