上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

余裕

横断歩道が目の前で赤になったとき、「あー、もう!」って思うのと「ま、別にいっか。」と思うのでは随分心の持ちようが違う、という話を随分前にしました。1年前くらいに。このときにはあくまで一部の例だったけれど。

物事なんでも捉えようによって見方は変わってくるということです。言いたいことは今でもあまり変わっていない気がします。そして、それを、より大きく普遍化して一般的に考えたりしているところがあります。

無効化およびすり替え

「損した気分」っていう考え方がありますが、それは「損した」と思ってしまうから「損した気分」になってしまうのです。そもそも「損得」という概念をそこから排除してしまえば、別にそんなことは考えなくて済む。横断歩道の例なんかはそうですよね、きっと。「時間の無駄だ」とか思うからイライラしてしまうのですが、別に「待つこと=嫌なこと」という概念自体をそこから排除してしまえば、待つこと自体に何のマイナス面もなくなる。そういう風に概念自体を見えないようにするというテクニックを人は(というか、少なくとも僕は)無意識のうちに使っているのかもしれない、と最近思うようになったわけです。概念の無効化およびすり替えを問題に対して行うことによって、問題を問題で無いように見せることが出来ると。それを意識的に使えるようになればもっともっと生活していく上でのストレスは減るのではないでしょうか??

それが不可能な状況

ただ、ここからは前回は考慮に加えられていなかった点なのですが、「余裕がない」状況下ではこのような考え方は上手く機能しません。前述の横断歩道の信号の例で言えば、時間的に余裕がないときには目の前の赤信号には実害が生じます。そこに自分が今おかれている状況に対する焦りが拍車をかけます。「急いでいる」という状況がもたらす「焦り」という感情が余裕を奪ってしまうのですね。

これを一般化したときに、新しい環境とか慣れない状況に対する「不安」などが余裕を奪うことがよくあると思われます。不安のもたらす影響は特に大きい。無意識のうちに、各方面から様々に圧力を加えてきます。上記の信号の例では「時間的制約」という直接的で物理的な状況が圧力を加えた結果として焦りが生まれていますが、僕の中で今思っているところにおいては、直接的に関係がなくても、他の事で余裕が奪われてしまえば、全体的にこういう「余裕を持った考え方」が出来なくなってしまうと考えられます。例えば、解けそうもない課題があって焦っているときには余裕は割となくなります。「本当に終わるのだろうか」という不安に襲われているわけですね。その問題に関して頭の中で一生懸命に考えている。そんな中で目の前の信号が赤に変わったら。やっぱりここでも「まぁ、いいか」と余裕を持って待つことは難しいのだと思われるのです。イライラと焦りが余裕を奪う。

結論

今の自分全体においてどの程度「余裕を奪う要素」があるのか。そしてそれがどのくらい余裕を削っているのか。総体として捉えたときに、その量が少なくなればなるほど、余裕を持った物事の見方が出来ます。そうすると、物事はうまく回ってくれるのかもしれません。自分全体の全ての物事において。

定常化の過程

最近、割とそんなことを考えています。2ヶ月以上に渡って続いていた、進振りから新学期関連の一連の不安がやっと収まりを見せてやっと状況に順応できてきたこととか(長かった)、様々なことに対して結論が見えてきたあたりから、やっとのことで余裕が生まれつつあるのかもしれません。そうやって余裕が出来たから、こうやって今考えることができるようになったのかな、とも思っていますね。もっとも、そう簡単に説明できる事柄でもないのかな、という懸念も頭のどこかにはひっかかっているのですが。あと、またいつ余裕がなくなるかもわからないし。僕の場合、本当に簡単に削られてしまうものなので。いろいろなところに地雷のように埋まっているでしょうね。きっと。

と、久々に長ったらしい文章を書いてみました。昔のほうが整った文章を書いていたかな。