上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

一貫性

なんつーか、結局自分に色々なphaseがあるところまではわかっているのだけれど、それをどの程度まで他者が認識しているのだろうかということをどの程度まで自分が認識しているのだろうか。うん、わかりにくい。自分の中だけですら「一貫性がない」ことに苛立ちを覚えていると言うのに、その一貫性の無さを断片的に見せられている他者から見た自分の中に果たして一貫性は存在するのか。そしてそのような他者の間に存在する一貫性のレベルをどれだけ自分が正しく知っているのか。うん、わかりにくい。図示したいくらいだ。

一貫性がない、という事態は、世間一般では気分屋であるとも言う。そして、大体の場合において肯定的には捉えられない。しかしながら、まぁ、テンションの違いによって考えていることが変わるというのも一定の割合では認めなければならない問題ではあると思う。程度の違いこそあれ。そして、一貫した自己などそもそもないのかもしれない。自己同一性、というコトバはここで僕が考えている一貫性とほぼ同義だろう。アイデンティティという言葉の訳語。そもそも、自己同一性などというものは作り出された幻想にすぎないのかもしれない。そのコトバが与えられてしまったがために、さも存在するかのように出来てしまった概念なのかも。確かにそのほうが色々なことに説明はつくけどさ。あ、メタレベルに話が飛んだ。

つい話が逸れてしまった。一貫性について考えていたと思うのだけれど、でも、意外と、自分が思っている以上に他者から見た自分には一貫性が存在するのではないかという考えもふと出てくる。だって、自分が一定以上接したことのある他者には、自分は必ずそういった一貫性を見出しているではないか。他者から見た自分はよくわかんないけど、そうやって考えている主体である自分を、自分から見た他者の位置のそれと置き換えてみると、意外にもそういった一貫性を色々な人に対して持っている。その人の「イメージ」みたいな。もっとも、それが不要な色眼鏡につながることもあるから、そこは十分気をつけた上で自省しなければならないのだけれど、それはまた別の話だ。多分、先ほどのアイデンティティの話とも同様に、その人を捉えるときに「この人はこういう人だ」っていう一貫性を持っておいたほうが色々説明がつけやすいから、勝手に先入観として一定のイメージを与えているのだな。一貫性として。

ということは、勝手に他者が自分に関して各々の一貫性的イメージを作り上げてくれている以上、自分はそのことに対して余計な考えを抱く必要は無いのだ、と割り切ってしまっても良いのだろうか。自分が努力しようともしなくとも、相手が一貫性を自分の中に無意識的に見出してくれる。うん、そういうことにしてみよう。若干暴力的な論理ではあるけれど。しかしながら、そのようにして他者を排除してみたところで、最近にして最大の敵が目の前に立ちはだかる。「自分」。こればっかりはごまかしようがないし、しかも、24時間自分とは常に一緒にいなければならない。ほとんどの場合。そこでまた「一貫性」が大きな顔で自己主張を始める。

やっぱり一貫性なんてない、って割り切ったほうが平和なんだけれど。そして、多分事実はそうなんだけれど。だけれども、そうやって「一貫性がある」っていう幻想が概念として一旦自分の頭に浮かんでしまっている以上、キレイさっぱりそれを消去することは不可能らしい。どこまでいっても、「あるんじゃないの」っていう可能性が捨てきれない。ケータイみたいに、入力中に電源ボタンを押し間違えただけで簡単にそれまでの文章がキレイさっぱり消え去るっていうことはないみたいだし。そしてやっぱり、そうやって考えちゃうのは逃げである、って考えてしまう。世間一般的には一貫性はあったほうがいいらしいから、これまで通り、一貫性はあると思い込んで、それに出来る限り近づけるように不断の努力を続けるのが賢明なんだろう。

言い過ぎ。多分30%増しくらい。そもそも考えすぎなんだろう。多分、アキレスとカメのパラドックスに近いのかもしれないね。