上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

6月も半ば。

色々なことにかまけている間に、やることもやらないでいる間に、もう6月も半分が過ぎ去ろうとしている。

表層的な事柄にばかり気をとられていて、本質を掴めていないような気がしてならない。しかしながら、何が本質なのかも実際問題知ることは出来ないのだから、それはそれで仕方のないことなのかもしれない。それなりに色々考えてみたところで、おそらく答えは出ないだろうし、一度答えが出たとしても、それはまた一時的なものなのだろう。本質なんてあるんだろうか。最近また、その影が視界の片隅にちらつき始めた。

結局のところ、やっぱりその場その場の成り行き*1にある程度身を委ねなければならないところはあるのだろうか。考えたところでその通りに進んでいくわけではないのだし。プラスにも、マイナスにも。けれども、一方でこれはニヒリスティックな思考に陥る危険性がある。バランスはしっかりと保たねばならない。客観性の維持。

レポートなんかもやってないし。引継ぎも書いていないし。ホントはやるべきことなんていくらでもあるんだろうけれども、気づくと、1日が終わっている。やっぱり、W杯なんか見てる暇はないのかな。もう少し、自分に厳しく当たるべきなんだろうか。どちらも切羽詰った問題でないだけに、重い腰が上がらない。ただ、甘えているだけなのだけれど。多分。

ホントなら、こんなこと書いている暇があったらその辺のタスクを片付けろっていうんだろう。重い腰を上げるのにそれなりのパワーを要する、って言ったとして、それは多分自分の中に巣食う甘えに過ぎないんだろう。そうやって勝手に自分で理由をつけて、勝手に自分自身を納得させてここまで来た。今まではそれでもなんとかなってきているのだけれど、知らず知らずのうちに歪みはたまってきているのかもしれない。気づくことが出来ないのが怖いのだけれど。

多分、圧倒的な実害として自分の中に表れてきていないから、こうやってモヤモヤした感じでしか認識されていないんだろう。「病気になったときに初めてわかる健康のありがたさ」。日ごろから病気にならないよう、体調管理には気を配らないといけないし、体を維持するために色々と努力をする必要がある、ということなんだろう。果たして、その行いが今の僕には出来ているのだろうか。客観視という名の人間ドックを受けたいものだ。受けられるものならば。

*1:こういうと不謹慎なのだけれど。でも、実際そう言うしかないのか。