上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

具体・抽象

上のは「教育基本法」について思ったことなのだけれど。

でも、具体的にそれがそうと書かれない状態で読んでも、別に何の違和感もない。そして、それをある程度意図的に覚悟しながら書いている面もある。普段から僕が思っていることだから。上の例だって、教育基本法には限らず、色々なことに言える。割と普段から思っていることである。

具体的な事例の上には、抽象的な概念が必ずあるというわけではないだろうけれども、どうしても、ブログという場に書く以上、無意識のうちに抽象化する操作をしてしまうことはある。ただ、そうすることには1つの危険性が生じる。僕がここに書く時点で、具体を抽象化したのだとしたら、読み手側が抽象からその裏にある具体を推測してしまうこと。言葉が単純であったり、短かったりするほど、そのような事態は起こりうる。時々僕は意図的に抽象化を行う。すり替えもしているのかもしれない。ただ、同時に、そうすることは、無用な心配をかけてしまう危険性を常に孕んでいる。ブログを始めるに当たって書いた「他人に不要な迷惑をかけない」というのは、そういう事態も含むものなのであろうけれども。プラスの匂いもマイナスの匂いも打ち消された文章を書いたときに、そこに施される味付けは読み手側のほうで為されるのだ。もしかして僕がそういう意図をこめたつもりが全くなくても、読み手側の解釈によって勝手に味付けが変えられてしまう可能性はあるのだ。文章の書き方ひとつによって十分に起こりうる事態。そういう意図がなくても。だから、言葉の使い方なんかは十分に気をつけるときは気をつけるようにしているつもり。最近それが出来ていないときがあって、それをこないだ反省したのだけれど。顔が見えない文章においては、しばしばその危険性が伴う。ブログでも、メールでも。それが利点であったりもするのだろうけれど。

時々、思いっきり具体的に書いたほうが良いのではないかというように思ってしまうときも、たまにはある。でも、多分それはできない。恐れているのかもしれない。

なんていうか、やっぱり、いろいろなものをストレートに出すのが苦手なのかもしれない。