上昇気流

細々とひとりごとを呟き続けています。

想起

ジャパハリネット「若葉咲く頃」を聞きながら部屋の掃除。

机の上とかの乱雑さを一掃した。久々に気分が向いた。あとは先学期のプリントの整理だな(遅)。

引き出しにいろいろなものを収納したりしていたら、思いがけず懐かしいものが出てきて、1年が経ったことを実感した。普段意識の上に上るものとしてはあまり1年という時の長さは感じさせず、むしろあっという間に過ぎてしまった印象であるが、それでも色々な経験をしてきたのだ。色々な人と出会い、色々なことをしながら。1年間に何をやってきたのかを思い出そうとしても、ありきたりのことしか出てこない。出てきたありきたりのものだけを材料に今までしてきたことを判断しようとしても、曖昧で漠然とした1年を過ごしてきたようにしか思われない。しかしながら、あるものを見たときにそれに付随した記憶が呼び起こされると、実際に自分の辿ってきた道の上にあったものが、見えてないものが、突如として甦ったりするのだろう。そういう「思い起こすことの出来ない記憶」がまだまだたくさん埋没している、ということも考えると、やはりこの1年間に僕の経験してきたことは多かったのだろう。

昨年9月、飲み会の帰り道でDaizenさんと話したときのことが思い出される。「楽しかった記憶であっても、自分の意思とは関係無しに、いつかは記憶が埋没していってしまう怖さ」を訴えた僕に対して返ってきた答えは「日常の中では忘れてしまっていても、時々ふっと甦ってくるから大丈夫」であるというものだった。「そんなもんなんだよ」と言っていたけれども、はたして、そんなもんなんだろう。自分のした経験に関して、どうせ忘れてしまうものであるから意味がない、とか、得たものはない、とその時点で早急に価値を決め付けてしまうのは愚かな行為なのだろう。しばしばやってしまうのだけれど。価値がないとその時点で判断したとしても、いつそれが貴重な経験として記憶の中に甦ってくるかはわからない。価値なんて、多分その時々で違うものなのだろう。だから、後々に効果を持ってくるものとして捉えるべきなのかもしれない。ストックとして溜め込みながら。そして将来、何かをきっかけに、掘り出されればよいのだろう。芋づる式に。

おそらく想起された記憶に関して今の僕はいろいろな感情を持つことになろう。色々と考えることもある。プラスからマイナスまで。しかし、その感情に対してどう対処してよいものか未だに処遇を決めかねている。その辺が優柔不断さの表れであるのだろうけれど。ただ、それで良いものなのかもしれない。それはそれで、また後になって何かの糧になるのかもしれないのだから。